【伝蔵荘日誌】

2013年5月17日: 橋下市長の慰安婦発言に思う GP生

 昭和35年に仙台で生活を始めた頃、仙台駅は空襲で焼け落ちた後の粗末な木造建築であった。 戦災を免れた地域では、往時の仙台を思わせる建物も多く見られた。 市の北東に東照宮が鎮座しており、その手前の小田原地区には、既に営業を停止していた旧花街の楼閣が軒を連ねて残っていた。 独特の建物の印象は今でも記憶に残っている。 昭和31年に売春防止法が成立し、昭和33年に所謂赤線が廃止された。 35年入学の自分達には縁無き事だ。  「赤線が無くなった」と嘆く、諸先輩の話は耳にした。 合法売春は昭和33年をもって終り、吉原の花魁で有名な江戸以来の花街文化も消滅した。

 赤線が消えて55年が経過した現在、公娼と言う名の売春婦が職業として社会的に公認されたていた当時の風景を、実感として知る国民は少なくなった。 昭和33年に20歳の若者は現在75歳、当時30歳の働き盛りも、生存すれば85歳だ。 高度成長期以降に誕生した日本人が大多数で、戦後民主主義教育に染まり、平和で豊かな社会で暮らしていれば、直近の過去である戦前、戦中、戦後の厳しい生活は歴史の中に埋没してしまう。

 男女同権は当たり前、女性の人権は保障されるべきが常識となっている現代では、かつて慰安婦を職業として選ばざるを得なかった女性に、人々が同情をよせるのは当然であろう。 公娼制度が実感できない社会の風潮の中で、戦中、軍と行動を共にした慰安婦についても、関心を持たなければ意識の外に置かれてしまう。 慰安婦や娼婦の存在を、現代感覚で批判をすることは容易だが、何物も生むものではない。 時代を超えて、社会に深く溶け込んでいた娼婦制度を理解することは、時代と社会を理解することに繋がる。

 合法的な売春は禁止されても、自由恋愛の名のもとに、売春は形を幾重にも変え生き残っている。 身を売らざるを得ない女性が居て、欲望処理を求める男がいる限り、一片の法律でコントロールできる訳がない。 地下に潜るだけだ。 公娼制度の基では性病防止の衛生管理がなされていたが、現在は自己責任である。 以前は若い男の遊郭通いは、一人前の男になるための通過儀式に例えられていた。 欲望発散の公的場が存在することは、性犯罪防止の役割を担っていたとも言える。 そう言う意味でかっての日本は文明度の高いシステムを有していたのかもしれない。

 昔の大映映画に「兵隊やくざ」シリーズがあった。 舞台は中国大陸の最前線。 主演は勝新太郎と田村高広。 インテリの田村とヤクザあがりの勝のコンビが、軍規に反する活動で部隊上層部の不正と闘うストーリーになっている。 この映画には必ず「慰安所」が登場した。 映画のヒロインは慰安所の慰安婦と相場が決まっていた。 明日の命も知れず転戦する兵隊と慰安婦との、成就することのない悲恋もサブテーマになっていた。 この映画を見ると、当時の慰安所や慰安婦の雰囲気が良く分かる。

 多くの復員兵が社会人として存在した昭和30年代のこの映画は、戦地での兵隊たちの日常を間違いなく、ほぼ正確に伝えている。 当時、ピー屋と称された慰安所は民間業者により運営されていた。 ただ、性病罹患は戦力減退になるため、軍が衛生管理を組織的に行っていた。 それ以外の慰安婦の募集や慰安所の管理は業者の所轄である。 軍は関与していない。 しかしながら、彼女達の移動に軍が便宜を図ったことは有っただろう。 映画には軍のトラックに沢山の慰安婦が乗り、手を振っている場面が出てくる。 軍と業者の求める利益は異なっても、両者の阿吽の呼吸で慰安所の運営管理がなされていたのは事実であろう。

 慰安所の存在が、結果的に現地女性をレイプ被害から守つたことは想像に難くない。 戦争と言う必要悪から生じた慰安所を、現在の人権感覚で批判しても無意味である。 軍と一緒に自律的に移動する慰安所がなければ、どの国の兵隊でも女性を現地調達をする事になる。 ベトナム戦争に参戦した韓国部隊が現地に数万の混血児を残した事実は有名だ。どちらが文明度が高いと言えるだろうか。

 戦争と性の問題は声高に語る問題ではない。 ましてや、教科書に載せ、教室で教える事ではない。 何処の国でも、戦争には性がつきものだ。 旧ソ連軍が日ソ不可侵条約を破り旧満州国に侵入した時、多くの日本人子女がソ連兵達にどれ程悲惨な目にあわされた事か。 進駐軍の報道管制で一般に知らされることはなかったが、駐留米兵によるレイプの記録は万の単位で残されている。 沖縄にも髪の毛の色が違う混血児がたくさん生まれた。 米兵のレイプに対処するために日本政府が娼婦を総動員し、良家子女の防波堤とした。これも、報道管制内の出来事だ。

 そもそも、「従軍慰安婦」なる言葉は当時にはなかった。 国内ではもっぱら「娼婦」、「女郎」と呼ばれていた。 従軍慰安婦なる表現は、あたかも軍が主導しているかのような印象を与えるためにする、朝日新聞特有の造語だ。 韓国では20万人が性の奴隷とされ、殆んどが死んだなどと声を大にしている。 大嘘である。 韓国の宣伝やロビー活動により、NYタイムス等のメディアやアメリカ州議会でも「性の奴隷」が事実と信じられいる。 捏造であっても、100回言えば本当になる。 どの国でも、自国軍民による過去の行為に想いを致せば、他国に対してこの手の批判を声高に行える国などない筈だ。 日本叩きに意図的悪意を感じる。

 泰郁彦日大教授が外務省、領事館、警察の統計を分析した結果、当時の「従軍慰安婦」は、日本内地出身者が4割、中国・インドネシア・フィリッピンなどの現地募集が3割、朝鮮出身者は2割程度だったとある。 教授は資料を再調査し、昭和17年9月現在の陸軍用慰安所は約400か所、一か所平均15人として、計6000人。 終戦時までに倍増したとして、12000人。海軍用、軍民共用を加算しても、20000人程度だと推定している。 しかも慰安婦の95%が故郷に生還し、朝鮮・台湾人は連合軍の復員船で日本人より早く故国へ直航している。 更に、教授によれば、戦地慰安所の生活条件は平時の遊郭と同レベルと結論付けている。

 戦前の朝鮮の官憲の殆んどが朝鮮人であった事実は、今ではあまり知られていない。 もし、韓国の言の通り、20万人の若い娘が軍や官憲、軍の依頼を受けた民間人により、組織的に強制連行されたとしたら、儒教意識の強い朝鮮人達が騒がない筈がない。 朝鮮人官憲が唯々諾々と黙して従ったとは思えない。 これら騒動の記録も無ければ、軍や官憲が慰安婦集めに関与したも証拠もない。 業者が家族に因果をふくめ、娘も親の生活を助けるために泣く泣く売られて行ったことが想像される。 戦前の東北飢饉の際に見られた、貧しい日本の農村の原風景とも重なる。

 そもそも、「従軍慰安婦なる問題」は昭和58年に吉田清治なる人物が、「軍が済州島で250人の女性を強制連行した」旨の捏造を行い、朝日新聞の在日朝鮮人記者が別の思惑から誤報を垂れ流し、韓国人を刺激したことに端を発する。 それまで、朝鮮半島の住人から「慰安婦問題」の煙も立っていない。 朝日新聞は此の誤報の訂正をあえて行っていない。 朝日の責任は極めて重い。

 慰安婦の問題を「従軍慰安婦」と読み替え、事実とは異なる歴史の捏造により、国際的な問題にまで発展させた責任は、平成5年8月4日の宮沢内閣による「河野談話」にある。 朝日の意図的誤報により韓国が騒ぎだし、これを押さえるために語られた。 これに先立ち、宮沢内閣は石原官房副長官を中心による、膨大な資料の調査を行った。 韓国政府が選択した、 16人の元慰安婦に対して聞き取り調査も行った。 彼女たちは「自らの意思で慰安婦になったのではない」と証言している。 当然だろう。誰が喜んで身を売るものか。 かつての、日本の娼婦、遊女達に同じ質問をすれば、同じ答えが返ってくるだろう。 聞き取り調査での元慰安婦の発言が全て真実とは思えない。 自分や自国に都合の悪い事を自ら語らないのが人間だからだ。

 調査の結果、「軍による組織的な強制連行」を示す資料は見つからなかった。 軍主導で強制連行をしたら、几帳面な日本人の事、何処かに証拠の痕跡は残っている筈だ。 業者が騙すことはあっても、軍や官憲が強制連行したことはなかったが、真実であろう。 にもかかわらず、韓国政府は「慰安婦女性達の名誉のために、彼女達が生活や金の為に慰安婦になったのではなく、強制連行されたのだと認め、謝罪してほしい」と要望した。 河野は日韓関係への配慮から、「物理的な強制は無くとも、精神的強制も強制」との詭弁を弄し、官房長官談話を発表して政治決着を図った。 この談話をもって最終決着が図られるはずとの政府の思惑は、半島住人の国民性故、新たな火種を決定的に造ってしまった。 性善説は日本人以外には通用しないのだ。

 談話をつぶさに読んでみると、調査結果を河野の自虐思想による思い込みにより、捻じ曲げた作文になっている。 過酷な戦場で命を懸ける日本兵の戦意高揚の為、軍が慰安所運営に手を貸したのは事実だが、軍が直接、間接的に慰安婦を強制連行したことは史実に反する。 河野談話には「その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反しておこなわれた」との記載があるが、これ等の主語は明示せず、「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり」と曖昧に表現している。 日本国がこれ等の行為を行ったとも読める表現だ。慰安婦の出身が「朝鮮半島の比重が大きい」とあるが、前記の通り、明らかに誤りだ。 日本の政治家として愚かな政治判断をしたものだ。 以来この談話が独り歩きし、日本軍の強制連行の証拠とされてしまった。 この責任を宮沢、河野両氏がとる気配はない。

 戦地で戦う兵隊の性欲処理は、戦力確保に欠かせない必要要件だ。 橋下市長が沖縄の米兵の性欲処理に風俗を利用すべしとの発言は、本質はそうであっても、デリカシーに欠けた表現だった。メディアのコメンテーターの発言の殆んどは、橋下非難のオンパレードだ。 彼の言は、「軍隊と慰安婦の問題は世界共通の問題であり、当時としては仕方がなかった」。 従って「日本だけが非難されるいわれはない」と言う趣旨である。 正論だが、最初の表現が至らないため反発を買っている。 識者と言われる人達も、無意味なきれいごとしか言わない。 そもそも、性の本質問題を語る場にテレビはふさわしくないし、気の利いたきれい事を語ることを本意としている連中が、本音で語る訳がない。

 半島との確執は増すばかりだ。 半島の連中は、下手に出れば付け上がり、正論には感情的反発だけ。 理論的議論は受け付けない。 この煩わしい国とは距離を置ければ良いのだが、地理的環境故そうもいかない。 厄介な国民だ。 彼等との間の相互理解は夢のまた夢である。

 橋下市長の主張は乱暴な点もあるが、言わんとすることは至極真っ当で間違っていない。 彼の政治的思惑は別にして、彼の主張を徹底議論をすればよい。 議論の中で、朝日新聞や韓国民には都合の悪い、隠れていた真実が明らかになることも有るだろう。 日本が謂われなき国際的非難に曝されていることを、多くの国民が知る必要がある。 しかも、日本人の国民性と真逆な、捏造された恥辱的テーマで批判されている。 我が国をポッタム宣言の敗戦国に留める事で、利益を得ようとする国もある。 歴史認識問題を我が国に対する攻撃材料とさせないためにも、橋下発言が、今まで臭いものに蓋をしてきた慰安婦問題について、表だった議論の嚆矢になればと思っている。
 

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