【伝蔵荘日誌】

2013年2月24日: 高齢者の夢見と人との関かわり GP生

  昨夜、面白い夢を見た。目が覚めても覚えているから、印象が強かったのだろう。「自分は勤務していた会社を退職しており、本社で嘱託として働いていた。昇進辞令を、鉱山所長のJDさんから手渡された。」との夢であった。嘱託の昇進も可笑しいし、本社での辞令交付が鉱山所長と言うのも可笑しい。夢の中で、それを当然としている自分も可笑しい。 合理性のない面白さが夢なのだろう。 夢見には、その夢を見るように誘導させる要因があるものだ。鉱山時代に大変お世話になった、亡き所長への新入社員時代の想いが、何かの要因で引き出されたのかもしれない。

 夢の中に現れる人々には、現在お付き合いしている人は少ないようだ。 登場人物は故人が多い。 先日も父親が現れた。夢のストーリーは目覚めと同時に、霧散霧消するから覚えていないが、父親は健在で、夢の中の自分は父が死んだとの自覚は無かった。目覚めた時もまだ、父が生きているかの様な感触が残っていて、嬉しい気持ちになった。 この年齢になり、当時の父の気持ちが理解出来るようになった事と関係があるかもしれない。 何故か、母は夢には現れない。先日、家人と話していたら、母の夢を見たという。夢の内容は聞きそびれた。 母が健在のころ、姑たる母に苦労したトラウマみたいなものが抜けきれないのかもしれない。

 過去に縁のあった故人が夢に現れる時は、自分が励まさた様な記憶が残る。父の夢もそうだった。 学生時代の仙台で縁の有った女性が居た。 この女性が夢に現れたことがある。彼女が若くしこの世を去った事を知って、暫く経ってからの事だ。彼女は病気の進行により、最後は自分が誰かも判らなくなった。脳の病だったと後で知った。夢の中で、彼女は何かを話しかけたていた。残念なことに、目覚めた後に記憶がない。 それでも、満ち足りた思いが残ったのは覚えている。

 過去の人物だけでなく、何十年も前に自分が辛い思いをしたり、苦労したことが、夢に現れる事がある。 自分の場合、殆んどが水処理事業部時代の事だ。 納入した設備が計画通りに性能を発揮しない事は多々あった。基本設計に問題があったのか、設置機器なのか、設計の前提となった水量水質が異なっているのか、それともこれらすべての要因が複雑に絡んでいるのか等々、当事者として頭を悩ますことになる。その結果、ギャランティーは出来ず、設備プラントの引き渡しは遅れる事になる。当然代金の回収は大幅に遅れる。客先担当者からの苦情、叱責、社内経理担当がの代金納入遅れの苦情の対応に四苦八苦することになる。退職後10年近くは、苦労した処理プラントと客先担当者の夢を見る事が多かった。パット目覚めた時、「ああ夢か。夢で良かった。」との思いに駆られた。苦労をした筈の鉱山時代の夢を見ないのは不思議なことだ。何かが自分の中で整理がつき、完結しているのかもしれない。

 同じ人間が、楽しい夢と悪夢を見る違いは何処にあるのだろうか。 70年以上生きてくれば、雑他の経験をして来ており、苦しみのトラウマもあれば楽しい記憶もある。 仙台のワンゲル時代の楽しかった山行の夢など一度も見たことは無い。 高橋信次師は「夢は魂の洗濯である」と言っている。 心に残った汚れである「苦い記憶や失敗の想い」を夢の中で再現することで、無意識の中で自覚している過去の過ちを悟らせ、反省させることにあるのかもしれない。

 覚醒下で人は、自分にとって辛く苦しい思いを、意識の下に仕舞い込み忘れようとする。 これは本能的自己防御だ。潜在意識化に押し込んだと思った記憶も、意識無き睡眠下ではコントロールを失い、夢の中で顕在化するのかもしれない。日々の生活が充実し、家庭内も平穏で悩み事が少ない時には、人の心は穏やかに満ち足りている。原因の如何にかかわらず、気持ちが苛立ち、怒りが沸く様な場合には、人の心は平穏ではいられない。たとえ些細な事にでも、心配の種にはなるものだ。 心の波動が安定を欠き、乱れた夜に、忘れたい過去が亡霊の如く、悪夢となって出現するのだろうか。

 過去の体験を白紙にする事が出来ないとすれば、不快な人間関係や辛い出来事の一つ一つを意識化に曝け出して、何故そのような結果になったのかを再度考え直すことが必要なのではないか。 全では無いが、かなりの場合、原因は自分自身にある事が多い。

 かつて、自分が辛く当たられた上司が居た。陰に日向に嫌味を言われた。 当時は、性格の違いと諦めた。 しかし、今考えてみると、自分の積極過ぎる性格と怖いもの知らずの生意気さが、その上司のカンに触ったのだと思う。 真面目すぎる機械技術者であったその上司には、我慢が出来なかったのだろう。 上司の不快感は、自分の未熟な人間性が招いたことだ 。今では反省している。幸いなことに、その上司はまだ健在で、鉱山親睦会で顔を合わせ話す機会がある。過去の己の未熟さを、それとなく詫びる機会があるのは幸いだ。

 70歳を過ぎれば時間だけは沢山ある。 覚醒している意識の下で、自らが生きてきた過去を反省し、個々の出来事を心の中で整理していけば、悪夢の種が減ることになるかもしれない。 「夢は魂の洗濯」とは、意識下に隠れた、心の汚れを自覚させる天の配慮かもしれない。 この世で起きたことはこの世でけりをつけ、心の内全てを清算出来れば、肉体が役割を終えると同時に、魂は天上界の定められた居場所に一直線だと聞いている。 難しいことだとは思う。

 先日、秋田に住むWaさんと電話で話をした。 2年前の今頃、脳梗塞で視力の80%以上を失ったWaさんは、生きる望みを失い、絶望の底に居た。 今回の電話でのWaさんは、明るい声で、こんな夢を見たと話してくれた。「東京の恵比寿ガーデンで、ガーリックチーズを食べ、黒ビールやハーフアンドハーフを飲みながら、空を見上げると、キンキラキンに見えた。目が完全に見えた」と。失明を怨み、自分の運命を悔やんでいたら、このような夢を決して見る事は出来ないだろう。 苦難を克服し、毎日を積極的に明るく生きるWaさんに対する、天からの贈り物の様に思えた。

 歳を取ってくると、人とのお付き合いが煩わしきなることは多い。 何年か前の秋に、長年、賀状を交わしていた旧友から、古希を機会にして交誼を終了する旨の便りを貰ったことがある。その時の気持ちを伝蔵荘日誌に「Si君からの便り」として書いた。 少し寂しい気持ちもするが、彼の気持ちが分からなくもない。Eメールに反応しなくなった友もいるし、長い鬱病の結果、この世を去った仲間もいる。生きる目標を失い、日々刺激の少ない生活を送れば、老人性鬱の世界に迷い込まないとも限らない。

 鬱の世界に入り込んだ高齢者は、如何なる夢を見るのだろうか。 認知症に入った年寄りが夢を見たとの話は聞いたことがない。 夢を見る事は、如何なる夢であっても健全な肉体と精神を保っている証拠なのかもしれない。認知症の老人が自己表現の機能を失ったとしても、本来の魂は健全な状態を保っている筈だ。 魂の翻訳機能を有する脳神経細胞が、能力を失ったに過ぎないにしても、この世で生きるには辛すぎる。

 高齢者にとって人との関わりを保ち、新たな関係を築くことは生甲斐に繋がる行為だと思う。 確かに、人と円満な関係を続けるには努力が必要だし、煩わしいことも多い。 浮世の義理による付き合いは面倒だ。多少の整理は必要かもしれない。 現在の自分の仕事であるマンション管理は、居住者との円満な関係が不可欠だ。機会ある毎の会話により、より良き関係を保つ努力を惜しまない訳にはいかない。 面倒なことでは有るが、仕事と割り切って実行することは、意欲低下の防止にはなる。年齢に関係なく、人が人との関係を築き維持することは、この世で生きていくための修行にも思える。 より良き夢見は、日常の些細な努力により、もたらされると信じたい。

 今まで歩んで来た道筋で出会い、現在まで付き合いが続く人達とは、前世で縁が有った人達かもしれない。 これから、無理に人付き合いを広げようとの意欲はさすがにないが、生きていく上で、自然に発生する人との関係を忌避するつもりはない。 袖触れ合うも多生の縁ではないが、現世での出会いで無意味なことはないと思っている。

 今後、加齢を重ねるにつれ、どの様な夢見になるのだろうか。 目覚めの悪い夢、もがき苦しむ様な夢は願い下げだ。 Waさんが見た様な、希望溢れる夢を毎晩見られるとしたら、寝る事が楽しみになるかもしれない。
 

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