2012年12月30日: 我が第二の故郷 嬬恋村 U.H. ![]() 嬬恋村事始め 高校2年の時(昭和35年)だったか夏休みを前にして級友からある誘いがあった。 曰く、自分の実家であり、父が働いている嬬恋村三原に遊びに来ないか、と。 その有難い言葉に甘えて、他の友人も含めた数人で、彼の実家に数日逗留させてもらった。 上野駅から上越線に乗って高崎を経由し、渋川から吾妻線に乗り換えて、上州三原駅(現在は万座鹿沢駅)に至るのだが、恐ろしく時間がかかったことが記憶に残っている。 ![]() ちなみに友人の父君は、戦時中 東京新宿の百人町で開業されていたのだが、戦火に焼け出されて閉院の憂き目を見た。 そこへ郷里の嬬恋村から、無医村状態の村で医療に従事して欲しいと懇請され、終戦直前の昭和20年に村に帰って開業されたのだそうである。 先生は、地域の医療に献身的に尽くされたのみならず、体育が青少年育成に大変重要であると考えられて、吾妻地域に体育委員会を創設し、自らその責任者になって、晩年まで熱心に尽くされたそうである。 ![]() 子供の幼稚園、そして山荘建設へ 昭和44年に所帯を持ち、翌年に一人娘を授かった。 始めは横浜市日吉のアパート、次いで東京都狛江市の分譲集合住宅に暮らしたが、やがて娘が幼稚園に上がる日を迎えた。家内がカソリックであったことから、娘は世田谷区喜多見のレストンナック幼稚園に通うこととなった。 あるとき父兄参観日があったが、同級生の父兄の中に私と同じ勤務先の人がいて紹介された。 このご家族とは、その後ずっと家族ぐるみのお付き合いをすることとなるのだが、その事始めが「嬬恋村の別荘に一緒に行かないか」ということだった。 その知人の叔父夫妻が早い時期から嬬恋村に別荘を持っており、同行するお誘いを頂いた。 そこは浅間山北麓の標高1100メートル地帯にある「大蔵屋プリンスランド」という別荘地で、東京の目黒区ほどの面積に約4、5千区画を擁し、18ホールのゴルフコースやテニスコート、児童遊園地を併せ持って、地域設計もしゃれた所だった。 ![]() それから夏には毎年お声をかけて頂き、吾妻高原での快適な別荘ライフを味あわせてもらう有り難い年が何年も続いた。 しかし子供は年々成長するし、3人の子供は男女の構成であり、小型自動車に7人乗りする異常な形もすでに限界点に近づきつつあった。自分も40歳を過ぎて、多少のゆとりも出来る頃となったので、それまでの訪問経験で気に入っていた嬬恋村プリンスランドに自分も山荘を持とうという一大決心をする運びとなったのである。 この前後、父親が旅行先の山の温泉場での転落事故を起こし寝たきりの療養生活となった。 老人医療施設での療養で、直接介護をしたわけではないものの、意識のない病人を5年近く抱え、看取るという経過があった。 長期間であったため、家内にも多大な負担を強いる結果となり、そうした諸々のストレスを緩和する一方策として、山荘を持ったという意味合いも含まれていた。平成元年のことであった。 長くなったので、この先は別の日に書こう。 【続く】 |