2012年12月13日: 古き仲間との会合を楽しむ GP生 ![]() 参加者は男の子3人、女の子3人で、Ka君のお焼香時に体調を崩して参加できなかった女の子が一人が、新たに加わった。小学生当時は男女間で妙に意識し、ほとんど口を利かなかったものだ。 孫達の男女間の闊達な交流の比べれば、隔世の感がある。同級生であるが故、年齢は同い年の男の子と女の子だが、現実はおじいさんとおばあさんだ。 お互い歳を取って、男女間の垣根はきれいに取り外されているから、生臭い感情なしで、忌憚なく思ったことを喋る事が出来る。 男だけの会食と異なり、苦労人のおばあさん達が3人も居るのだから、賑やか過ぎて、周囲のお客に気を使うことになる。 現在まで、30年近く続いているクラス会の成果なのだろうか。 1時間が過ぎ、2時間も過ぎるとアルコールの量もかなりのものとなる。この頃になると、女の子も本音で語り始める。 義理の両親に苦労しながら、大きな飲食店を仕切った元女将は、かつてのクラスで一方の旗頭だった。 病気の夫を世話しながら、自分も体調不良に悩まされている女の子は、和服が良く似合う日本舞踊の名取だ。 残る一人は、小学生当時の学業成績がダントツだった女の子だ。現在は若者相手に、ボランティアで悩事の電話相談を行っている。 淑やかだが、懐の深い、インテリジェンス豊かな芯の強い女性だ。 ![]() 2次会を含めて5時間近い会合は終了した。 歳を取っても、仕事や日常での悩みが未だ尽きない自分にとって、昔の子供心に戻って、以前は言えなかった思いを語ったり、相手の悩みを真剣に考えたり、バカ話に大笑い出来るひと時は、正直、心が洗われた。 「歳を取っても、本音で語り合える仲間がいる事は、どれだけ幸せな事だろう」、他の5人も同じ思いを語っていた。 家庭内を考えても、子供達や孫とは世代間の感覚差はあるし、まず人間関係の立ち位置が決定的に違う。どんな夫婦であっても、話せない話はあるものだ。 胸に詰まったまま、普段吐露するないことのない心の澱みたいなものを、吐き出せる機会は歳を取ると少なくなる。 学生時代からの山仲間も、お互い遠慮なく好きなことを言い合える友人達だ。若く多感な時期、共通の趣味である山を歩き、寝食を共にした仲間達だ。ギリギリの体力や精神力を試されたり、助けたり助けられたりした事もある。 お互いの人間性への理解は、有る面、夫婦より深い処があるかもしれない。そんな仲間との交誼が卒業後も続けば、時間の有り余るリタイヤ後に、更に交流が深まるのは当然の成り行きだろう。 卒業後も合宿や山行、ヒマラヤトレッキング等、より濃密な仲間関係が重ねて、兄弟以上の人間関係にすら発展することになる。 高齢期を迎えても、お互い体力的にゆとりがあり、思うように活動できる年代では、共通の目的に気持ちを集中出来るであろう。新たな山行のために知恵を絞り、相談や話し合いが持たれることも自然の成り行きだ。当然、飲食を伴う機会も多くなる。 お互いの結びつきが、更に深くなる好循環が生じる事になる。 ![]() 山と言う共通項を基に交誼を重ね、互いを理解していても、私生活まで踏み込んだ付き合いが、全ての仲間と可能であるはずがない。私生活と言うブラックボックスがあっても、山仲間同士の交流には差し障りは生じない。敢て、そこまで踏み込まない事が、相手に対しの思い遣りになることも有るだろう。 体力的にも気持ち的にも、何れ山に登れない時が、五月雨的に個人個人にやって来るのは間違いない。 また、山に登らずとも、ともに温泉等に旅することも在るだろう。そんな時、共通の時間を如何に過ごすかが大事になる。 若い時は、恋愛を語り、将来の仕事や夢を語れた。 壮年期は仕事の苦しみや悩みを真剣に話し合えた。 70歳を過ぎ、自らの将来が朧げながら見えたと自覚できる歳になれば、お互い、何を語ることになるのだろうか。 語ることで、先行きの漠然とした心の不安を乗り越えられるのだろうか。語るより、自分が望む目先の興味に没頭するほうが、精神衛生上は好ましいに決まっている。曰く、ヨガ、ゴルフ、囲碁将棋、スポーツジム等々、世の中には小金持ちの年寄りを楽しませる処方は沢山ある。 久し振りに、仲間と会合しても、興味の湧かない会話より、好きな物事に熱中するほうが楽しいと感じても不思議はない。 「お互いの事は、何十年に亘る付き合いで、解かる過ぎるほど分かっている。」と想のいに駆られても当然かも知れない。 しかし、年齢には関係なく、己と己にかかわる人達との交流を通じ、それぞれの心をより大きくする為の切磋琢磨は必要と思うのだが。 これから先の加齢の進行により、個々の想いの違いが、更に大きくなるのは仕方がないことだと思う。 ![]() 高齢期を迎え孤独にさいなまれ、寂しい最期を迎えるか、心の通じる仲間と共に老後の人生を過ごすかは、これまでの生きざまの然らしめる処であろう。 この国のあの時代に、この両親の子供として誕生したことは、自らの意思で替える事の出来ない宿命であり、運命は、自ら力により替える事が出来ると言われている。 宿命を嘆くより、自らの運命を切り開き、この世に生まれた目的を探り、達成することが、人に課せられた命題であるとも言われている。恐らく、我々凡人には一生かかっても分からぬ謎であろう。 小学校の同級生でも、全ての友と現在まで繋がる交流をしている訳ではない。限られた人達しか、先に記した様な会合は持っていない。 山の仲間でも、真に心を開いて語り会える友は限られている。 この様な濃密な人間関係がどうして生じるのだろうか。 自らの力だけではなく、目には見えぬ何かの力が、働いているとしか思えない。 人は何時までも健康で自力の生活が出来る訳ではない。何れ、この世を去らねばならない時が訪れるはずだ。 夫々の仲間の残された時間は、神のみぞ知る事で、誰にも分からない。 高齢期の今だから、日々何気なく過ぎていく時を大切にしたいと思っている。だからこそ、自らの信じるままに、現在の仲間達との交誼は素直に継続していきたいと思う。 幸い現在は、仲間達の多くは健在だ。 何時まで続けられるか判らないが、足腰の立つ内は、お互い機会を作り、ひと時の会合を楽しみたいと思うのは、共通の願いでもある。 |