【伝蔵荘日誌】

2012年11月16日: 遥かなる大雪・石狩連峰 GP生

 ワンゲル一年時の夏合宿の写真をTG君が送ってくれた。 北海道の大雪・石狩連峰を歩いた時の物だ。 パソコンデスクを整理した時に見つけたCDに納められていたとの事だった。 自分が学生時代に生活していた鉱山学科の瀬峰寮は、卒業直前に寮生の不始末から出火、全焼した。 自分の誕生日だった。 山の道具はもとより、写真はネガ共々、学生時代の物は一切焼失した。 中学時代から記録していた山日記もすべて焼け、記憶に残されたもの以外、思い出す手段になる物は一つも残っていない。 その記憶も、加齢と共に次第に薄れていく。 TG君からの写真を見ていたら、合宿時の事が連鎖反応的に思い出され、ベットに入っても、なかなか寝付けなかった。

 昭和35年に自分が大学に入学した時、ワンダーフォーゲル部は、2期上の先輩達が始めた出来たてほやほやのサークルで、未だ教養部の同好会に過ぎず、正式な部としては認められていなかった。 今思い出しても、装備は貧弱だし、会としての活動方針もはっきりせず、「自然に親しむ」をメインテーマとして、各自勝手に野山を歩いているだけの感じだった。

 その年の夏合宿をどうするかで、先輩達の意見が山派と平地派とに分かれた。 結局、当時は多数派だった平地派が三陸海岸を歩くことになり、少数派の山派合宿には根っから山好きの8人が参加した。 北海道中部山岳地帯が目的地で、大雪山から石狩・トムラウシ・十勝岳に至る大雪山系全山縦走と決まった。 期間は約20日間。 一年生の参加はTG君と自分の二人だけだった。 結果的には、大雪、石狩と歩いてトムラウシに達したところで、梅雨末期の豪雨で装備はずぶ濡れ、テントに閉じこめられ、食料も足りなくなり、やむなく天人峡温泉に退却して合宿が終わった。 

 仙台での生活が始まった当初は、東京での長い受験勉強と親元での生活からの解放感からか、仙台の街が輝いて見えたものだ。 仙台駅は戦災で焼失し、その後建設された粗末な木造建築であったが、夜行列車の長旅を終え、仙台駅前に降り立った時のときめいた気持ちを、今でも覚えている。 中学高校を山岳部で過ごし、奥多摩や奥秩父の山々をもっぱら歩いていた自分は、ワンダーフォーゲル同好会に迷わず入会した。 山岳部だけはやめてくれと言う親のきつい願いがあったので、最初から対象外だった。

 高度成長期以前の昭和30年代中頃、仙台から旭川まで最低のコストで移動する手段は、鈍行列車と青函連絡船の乗継しかない。 旅館に泊まる発想は全く無く、もっぱら車中泊である。 夜行列車の床に新聞紙を敷いて寝るいわゆる「四等寝台」である。 札幌から旭川、上川を経て、層雲峡から入山した。 旭岳を盟主とする大雪山系は当時でも比較的開けていて、登山者も多かった。 旭岳を過ぎたあたりから忠別岳以南は登山者の姿はまばらで、特に沼ノ原から石狩岳を往復した3日間は一人も会わなかった。 登山者よりヒグマの方が多く、登山道に真新しいヒグマの糞が山になっているのに時々遭遇した。 そんな時、クマ避けの笛の音が一段と大きくなった。 登山道の周囲は密集した根曲竹の群生で、ヒグマも藪を避けて登山道を歩くからだ。

 トムラウシ山周辺は天然記念物の鳴きウサギの生息地として有名である。 岩の隙間からたびたび鳴き声が聞こえた。 トムラウシ直下、ひさご池の無人小屋は、登山者の残飯をあさるヒグマが出没することでも有名な場所でもあった。 笛を鳴らして人間接近の警告を与えてから小屋に近付くのが鉄則である。 この小屋に宿泊中の夜中、先輩のWaさんが「うひゃー」と大声を上げた。 全員何事かと飛び起きたら、テントが燃えていた。 寝袋だけでは寒いので、テントをかけて寝込んでいたのだが、その上に消し忘れたローソクが倒れて燃え移ったのだ。 発見が早かったので大事には至らなかったが、翌日はテントの修理に苦労した。 発見が遅れたら大火傷を負っていただろう。

 五色岳から東の尾根を辿ると、秘境中の秘境「沼ノ原湿原」がある。 人跡未踏の地を思わせる湿原が静寂な佇まいを見せながら存在していた。 ここにテントを張って、さらに東の石狩岳を往復した。 石狩岳の頂上は無風快晴、遮るもののない360度の眺望は、言葉では表現できない素晴らしさだった。 北にウペペ山系、南に十勝岳から日高山系、東には知床半島の羅臼岳までが遠望出来た。 北海道の半分以上が一望の中に存在していた。 生涯でこれ以上の眺望に巡り合ったことは無い。 TG君からの写真には、石狩岳頂上で全員がこの景観を見惚れている一枚が入っていた。

 合宿の半ばを過ぎ、トムラウシ直下のひさご沼に幕営していたとき、自分が蕁麻疹の発症に見舞われた。 リーダーのTaさんの判断で、補給を兼て天人峡温泉に下山した。 20日分の食料を全部担ぐことが出来ず、補給の食糧を前もって天人峡温泉にデポしてあったのだ。 天人峡では旅館に宿泊したが、発疹が引かず、抗ヒスタミン剤もなく、腫れ上がった体を濡れタオルで冷やすしかなかった。 2泊ほどした記憶がある。 この間、昼夜を分かたず、TG君が温まったタオルを取り換えてくれた。 先輩諸氏が、「まだ、動けないのか」という目つきで見ていると感じたのは、自分の僻目であったのかもしれない。 発疹もいくらか収まり出発した。化雲岳の急斜面の長い登り道の辛かったこと。 歯を食いしばって耐えたが、あのような登りの苦しさを以後経験したことがない。 TG君の看護には、今でも感謝している。

 それにしても、あの粗食で50キロ近いザックを担ぎ、あれだけのアルバイトに良く体が耐えたものだ。 最後の幕営地となったトムラウシ直下で梅雨末期の豪雨に降り込められた時は、テントの周囲に掘った溝の排水能力が追い付かず、水につかったシュラフの中で夜を過ごした。 背中の下を水が流れていた。 それでも昨今はやりの低体温症にもならず、皆元気そのものだった。

 平成21年7月に、旅行社のトムラウシツアーに参加した高齢者8人と、高齢のガイド1人が低体温症で亡くなり、社会問題になった。 ガイドの状況判断ミスが有ったようだが、同じ状況化下でも、我々の時のような20代の若者であれば、異なる結果になっただろう。 事実まったく同じ状況に遭遇した我々は元気そのもので、低体温症など想像もしなかったのだ。 此の旅行会社は、最近万里の長城でも同じような死亡事故を起こしている。

 あれから50年以上が過ぎ去った今、若いことの素晴らしさをつくづく感じる。 あの当時は、若さを思い切り浪費出来た。 いまは望むべくもない。 合宿を終え、無事仙台に戻ってきたときは、さすがに消耗しきっていたのを記憶している。 仙台を出発する時、自分の荷物の重量は約60s。 下宿を出る時、下宿のおばあさん「あれあれ、腰が抜けますよ、だいじょうぶですか」と、上品な仙台弁で声をかけてくれた。 下宿先は元仙台藩上級武士の末裔の家で、70歳を過ぎたおばあさんは他で聞いたことがない上品な武家の仙台弁を話した。 初対面の時「書生さんは、何処のご出身ですか」と聞かれたことを懐かしく思い出す。 夫婦に子供2人の暮らしの中心には、何時もこの、世が世なれば伊達家家臣のお姫様だったおばあさんが居た。 この下宿での生活は、自分育った家庭にはない雰囲気で、得難い経験だった。

 一年生部員で参加したのは二人だけで、エッセン係をTG君と一緒に担当した。 山での献立を考え、材料の買い出しに出る。 貧乏学生だからいかに安く上げるかが大命題である。 夏の長期合宿だから、痛みやすい食材は駄目だ。 缶詰は高くて重い。 安く、軽くが大切だ。 当時仙台ではクジラの生肉が安く手に入った。 今は高級食材のクジラのベーコンも安かった。 クジラの生肉を塊で買い スライスにして味噌漬けと塩漬けの二種類を準備した。 現地で塩や味噌を落として焼けば鯨ステーキになる。 そぎ落とした味噌はみそ汁に使える。このクジラステーキはゲーキと称した。 これ一切れで飯盒飯が食べられた。 栄養バランスは二の次だったが、貴重な蛋白源になった

 自分にとって、大雪・石狩連峰山行が、仙台でのワンゲル活動の原点になっていることは間違いない。 この合宿に参加したTG君と、現在は秋田に在住のWa先輩とは、今でも50年前のこの合宿当時と同じ感覚で話すことが出来る。 かけがえのない友人である。 ワンダーフォーゲル部では沢山の山仲間に恵まれた。 現在も続く伝蔵荘の仲間達はその最たるものだ。 今もワンダーフォーゲル部は健在のようで、OB達の総数は500人を越すと聞く。

 自分は卒業の年、瀬峰寮の火災で、学生時代の記憶を止める物品一切を失った。 焼け跡で見つけたピッケルヘッドを、茫然として眺めていた事を今も覚えている。 就職先は対馬の鉱山。 ヤマはヤマでも大違いである。 もう山に登ることもない。 誕生日に学生時代の物全てが焼失したのも、天の配剤に思えた。それ以来、山らしい山に登っていない。

 TG君からの写真には心が揺さぶられた。 忘れかけていた記憶が蘇ってきた。 若く元気で青春なるものを謳歌していた仙台時代。 山仲間以外にも、自分の生活を支えてくれた人達が思い起こされた。 高齢期を迎えた今、多くの人々や仲間達のお蔭で、現在の自分があることが理解できる。 懐かしさと共に、感謝の想いが溢れてくる。 如何なる人間でも、独りでは成長はできないものだ。 もう二度と登ることがない大雪・石狩連峰は、遥かなる山々になってしまった。 自分の学生生活の真の起点となったのは、これ等の山々で仲間達と過ごした経験であったことに間違いない。 古き昔を思い起こしても、素晴らしき山々と多くの仲間達と出会えたことは、自分の人生の財産であり、これに勝る幸せは無いと思っている。
 

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