2012年11月16日: 遥かなる大雪・石狩連峰 GP生 ![]() 昭和35年に自分が大学に入学した時、ワンダーフォーゲル部は、2期上の先輩達が始めた出来たてほやほやのサークルで、未だ教養部の同好会に過ぎず、正式な部としては認められていなかった。 今思い出しても、装備は貧弱だし、会としての活動方針もはっきりせず、「自然に親しむ」をメインテーマとして、各自勝手に野山を歩いているだけの感じだった。 ![]() 仙台での生活が始まった当初は、東京での長い受験勉強と親元での生活からの解放感からか、仙台の街が輝いて見えたものだ。 仙台駅は戦災で焼失し、その後建設された粗末な木造建築であったが、夜行列車の長旅を終え、仙台駅前に降り立った時のときめいた気持ちを、今でも覚えている。 中学高校を山岳部で過ごし、奥多摩や奥秩父の山々をもっぱら歩いていた自分は、ワンダーフォーゲル同好会に迷わず入会した。 山岳部だけはやめてくれと言う親のきつい願いがあったので、最初から対象外だった。 高度成長期以前の昭和30年代中頃、仙台から旭川まで最低のコストで移動する手段は、鈍行列車と青函連絡船の乗継しかない。 旅館に泊まる発想は全く無く、もっぱら車中泊である。 夜行列車の床に新聞紙を敷いて寝るいわゆる「四等寝台」である。 札幌から旭川、上川を経て、層雲峡から入山した。 旭岳を盟主とする大雪山系は当時でも比較的開けていて、登山者も多かった。 旭岳を過ぎたあたりから忠別岳以南は登山者の姿はまばらで、特に沼ノ原から石狩岳を往復した3日間は一人も会わなかった。 登山者よりヒグマの方が多く、登山道に真新しいヒグマの糞が山になっているのに時々遭遇した。 そんな時、クマ避けの笛の音が一段と大きくなった。 登山道の周囲は密集した根曲竹の群生で、ヒグマも藪を避けて登山道を歩くからだ。 ![]() 五色岳から東の尾根を辿ると、秘境中の秘境「沼ノ原湿原」がある。 人跡未踏の地を思わせる湿原が静寂な佇まいを見せながら存在していた。 ここにテントを張って、さらに東の石狩岳を往復した。 石狩岳の頂上は無風快晴、遮るもののない360度の眺望は、言葉では表現できない素晴らしさだった。 北にウペペ山系、南に十勝岳から日高山系、東には知床半島の羅臼岳までが遠望出来た。 北海道の半分以上が一望の中に存在していた。 生涯でこれ以上の眺望に巡り合ったことは無い。 TG君からの写真には、石狩岳頂上で全員がこの景観を見惚れている一枚が入っていた。 ![]() それにしても、あの粗食で50キロ近いザックを担ぎ、あれだけのアルバイトに良く体が耐えたものだ。 最後の幕営地となったトムラウシ直下で梅雨末期の豪雨に降り込められた時は、テントの周囲に掘った溝の排水能力が追い付かず、水につかったシュラフの中で夜を過ごした。 背中の下を水が流れていた。 それでも昨今はやりの低体温症にもならず、皆元気そのものだった。 平成21年7月に、旅行社のトムラウシツアーに参加した高齢者8人と、高齢のガイド1人が低体温症で亡くなり、社会問題になった。 ガイドの状況判断ミスが有ったようだが、同じ状況化下でも、我々の時のような20代の若者であれば、異なる結果になっただろう。 事実まったく同じ状況に遭遇した我々は元気そのもので、低体温症など想像もしなかったのだ。 此の旅行会社は、最近万里の長城でも同じような死亡事故を起こしている。 ![]() 一年生部員で参加したのは二人だけで、エッセン係をTG君と一緒に担当した。 山での献立を考え、材料の買い出しに出る。 貧乏学生だからいかに安く上げるかが大命題である。 夏の長期合宿だから、痛みやすい食材は駄目だ。 缶詰は高くて重い。 安く、軽くが大切だ。 当時仙台ではクジラの生肉が安く手に入った。 今は高級食材のクジラのベーコンも安かった。 クジラの生肉を塊で買い スライスにして味噌漬けと塩漬けの二種類を準備した。 現地で塩や味噌を落として焼けば鯨ステーキになる。 そぎ落とした味噌はみそ汁に使える。このクジラステーキはゲーキと称した。 これ一切れで飯盒飯が食べられた。 栄養バランスは二の次だったが、貴重な蛋白源になった ![]() 自分は卒業の年、瀬峰寮の火災で、学生時代の記憶を止める物品一切を失った。 焼け跡で見つけたピッケルヘッドを、茫然として眺めていた事を今も覚えている。 就職先は対馬の鉱山。 ヤマはヤマでも大違いである。 もう山に登ることもない。 誕生日に学生時代の物全てが焼失したのも、天の配剤に思えた。それ以来、山らしい山に登っていない。 TG君からの写真には心が揺さぶられた。 忘れかけていた記憶が蘇ってきた。 若く元気で青春なるものを謳歌していた仙台時代。 山仲間以外にも、自分の生活を支えてくれた人達が思い起こされた。 高齢期を迎えた今、多くの人々や仲間達のお蔭で、現在の自分があることが理解できる。 懐かしさと共に、感謝の想いが溢れてくる。 如何なる人間でも、独りでは成長はできないものだ。 もう二度と登ることがない大雪・石狩連峰は、遥かなる山々になってしまった。 自分の学生生活の真の起点となったのは、これ等の山々で仲間達と過ごした経験であったことに間違いない。 古き昔を思い起こしても、素晴らしき山々と多くの仲間達と出会えたことは、自分の人生の財産であり、これに勝る幸せは無いと思っている。 |