【伝蔵荘日誌】

2012年11月13日: 高齢者にとって「生きている実感」とは GP生

 この処、何かと雑用に追われ、気持ちの落ち着く暇がない感じがする。サラリーマン時代は、営業、設計、現場管理、事務、納入設備の苦情処理等の対応に追われる毎日であった。 そんな多忙な日々であっても、これ等の仕事を苦にしたり、ましてや溜息が出るようなことはなかった。 サラリーマンであれば職種の違いはあっても、誰でもが経験していることだ。 どんなに多忙であっても「気持ちの落ち着く暇なし」などとの感覚は皆無であった。 仕事に対して前向きで、どんな激務であっても、充実した気持ちで職務を遂行していたからだろう。

 現在、賃貸マンションの管理運営を行っている。 片手間の仕事ではないので、間違いなく現役だ。 決算とか計画的大修理など、予め分かっている仕事に対しては、それなりの心構えと準備をし臨むので、心の負担は比較的少ない。 少なからざる時間に束縛されるだけだ。 だが、この束縛感はサラリーマン時代にはなかったものだ。

 大勢の人が生活を営むマンションでは、種々雑多な問題が突発的に発生し、そのすべては家主に還元される。 家でリラックスしてテレビを見ている時に呼び出されたり、就寝中の深夜にたたき起こされることもある。 事務所のテナント専用電話のベルが鳴ると、今度は何が起こったのだろうかと、心が一瞬でかき乱される。

 昨日は、喫茶店の店主から「廃水が流れなくなった」との急報を受けた。 原因を推定し、それなりの用具を準備して現場に駆け付けた。 調べてみると、調理場の片隅にあるマンホールに、汚物が盛り上がっていた。 築40年近い古い建物で、お店は居抜で代替わりするため、自分もマンホールの点検をしたことがない。 40年近い廃水の垢が積もり積もって排水管を塞いでいた。 次回の休店日に大掃除をする予定だ。

 今朝も専用電話のベルが鳴った。 嫌な予感に駆られながら受話器を取ると、水漏れだという。 昨夜の台風時の大雨による漏水の様だ。 上の階のベランダに原因がある。 早速、業者に連絡し一緒に現場に駆け付けた。 対策、工事はともかく、商品の一部に汚損が生じた。落ち着いたら、保証を兼て全品買い取らなければならないだろう。

 高齢期に入ると仕事は現役でも、心身の状態はサラリーマン時代のそれではない。 気力も意欲も体力も衰えている。 最近、意欲の衰えは特に実感するところだ。 日常、午前中はプールでの水中歩行を日課としている。 午後は予定した仕事や雑務をこなしたり、読書で過ごすことが多い。 PCは実務を主体にしているので、所謂、ハマルなどと言う状態ではない。 歳をとり、あまり刺激のない生活に慣れ親しむと、ともすれば惰性に流されてしまうことになる。 そこに、トラブル処理が立て続けに起こったり、近隣や居住者同士の揉め事の処理に駆り出されることが続くと、気持ちが落ち着く暇がないとの感覚になるのかもしれない。 非日常の事態と感じてしまうからだろうか。 面倒な事を忌避する気持ちが強くなっているからだろうか。 気持ちは現役からリタイヤしているのかもしれない。

 先日も、近隣で土地使用を廻る隣家同士のトラブル処理に呼ばれた。 一部の土地が自分名義になっていることと、何十年も前からの土地使用の実態を自分が熟知していることによる。 双方の言い分を聞きいた上で、解決策を提示し、その場は収まった。 ところが、翌朝一方の家から電話がかかってきた。 当事者の嫁さんが、大陸に帰ると泣いているので来てもらいたいとの事であった。 言葉は喋れても、日本の生活習慣に不慣れな嫁さんは、自分の少し強い言葉に人種差別されたと思い込んだ。 彼女には、積もり積もった家庭内のストレスが心の底溜まっていた様だ。 結婚以来、無理を重ねて頑張ってきた心が、人種差別されたとの思い込みにより、折れてしまった。 彼女とは一時間近い真剣な話し合いをした。結果、立ち直ってくれた。

 トラブルに直面した時、円満に解決するには如何すればよいかを、真剣考えざるを得ない局面に何時も曝される。 何事も無く、毎日を安逸に過ごしていても、いざの時は持てる能力をフル回転しなければならない。 若い時ならいざ知らず、歳を重ね、頭の回転も気力も意欲も低下している身であるからこそ、能力のすべてを絞り出す行為に、生きていることを実感するのかもしれない。

 伝蔵荘の仲間達も元気で、山歩きやゴルフ、温泉旅行、雪中歩き等々、仲間たちと老後の生活を楽しんでいる。 古希を祝って、アフリカの高峰キリマンジャロに登山した仲間もいる。 恐らく彼等に「自分達は生きている」と意識することは無いだろう。 今までより少し体力は衰えても、生活をエンジョイするやり方を変える必要がないし、今出来る事を次々にこなしていれば、特別な事を行っている意識など持つはずがないからだ。 高齢者の理想的な見本かもしれない。

 自分は問題になるような疾患は無い。 ここ数年、老人健診をパスしているので、所謂検査データーは無い。 本人の自覚と身体観察の結果、異常なしと判断しているだけだ。 健康で、日々の習慣に従って生活している時は、それが当たり前と思えてしまう。 しかし、生きている限り、その様に平穏な生活が何時までも続くはずがない。 トラブルや問題は何時も突然発生する。 自分自身の事を含め、全て想定外にだ。建物や設備のトラブルに直面して、如何にすれば解決できるかとか、コスト最小の修理方法等を真剣に模索する時は、日頃薄れていた意欲が、また湧き出してくる。 若い時から体に浸み込んだ工事屋根性が疼くのかもしれない。

 伝蔵荘の例会にも出席できず、宿泊を伴う仲間内の行事も、留守中の家人の負担を思うと、参加もままならない状態が2年近く継続している。 家庭内外で人の為に労力を割かざるを得ないのは、老後の自分に与えられた使命ではないかと感じる時もある。 自分の時間を上手に作りながら、日常的に生じる突発事項に対処したり、定例的な業務や雑事が出来る事は、生きている証ではないかと思っている。

 小学校の同級生であるKa君はすぐ近くの病院のベットに身を横たえている。 余命、一ヶ月と医者から宣告されたが、三ヶ月を過ぎてもまだ頑張っている。 意識はあり、見舞い客が誰かも、話しかける内容も理解していることは、彼の目を見れば分かる。 27年に及ぶ闘病の末、最後に侵されたガンが全身に転移した。 それでも彼は意識を保ち、付き添っている家族に見守られながら、この世での最後の人生を送っている。 彼を見舞う時、Ka君がどの様な思いでいるかは推測するしかないが、間違てなく彼が生きていることを実感する。

 病床に身を横たえているKa君にしても、もがきながらも老老介護に頑張っている知人夫婦や、脳梗塞で失明の憂き目に遭いながらも、懸命に生きている山の仲間も、皆、自身が生きていると感じる余裕は無いかもしれない。 心に何がしかのゆとりが生じた時、現在の自分の置かれた状況を客観視しない限り、生きているとの実感は持てないのだろう。

 自分も伝蔵荘の仲間達も、それぞれ自らが築き上げてきた環境で老後の人生を送っている。 健康で経済的に不安がなく、夫婦ともに円満に老後の生活を送れる人にとっては、何気なく時が過ぎてゆくのだろう。 けれど、誰でも加齢が進めば、何れ労苦が生ずることは必定だ。 この世に生を受けてから、人は懸命に生き続けなければならないのは、現世での定めだ。 生きている実感を苦しみの中でなく、平凡な日常生活の中で感じる事が出来るとすれば、高齢者にとって、これに勝る幸せはないと思う。
 

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