伝蔵荘日誌              【伝蔵荘日誌】

2012年11月4日: 「イザベラ・バードの日本紀行」を読む。 T.G.

 図書館で借りた「イザベラ・バードの日本紀行」(講談社)を読む。久しぶりに読み応えのある本だ。 イザベラ・バードはイギリス婦人で、明治11年、上海経由で初来日、以後1年余をかけて日本各地を単身旅行した。その時の旅行記である。当時の日本は西南戦争が終わり、明治政府による統治が軌道に乗りだしたばかり。来日直前に内務郷大久保利通が暗殺されるなど、不穏な状況が続いていた。西洋人の目から見れば、まだまだ極東の貧しい未開国に過ぎない。いかにイギリス人が冒険好きで、進取の気質に富んでいるとはいえ、独身女性がたった一人で未開国の奥地を歩くのは、冒険を通り越して探検に近かっただろう。

 明治11年5月21日、上海からの汽船シティーオブ東京号で横浜に上陸する。横浜に滞在し、ひと月ほど江戸(東京)見物を済ませた後、東北から蝦夷への旅に出る。春日部を経て日光に至り、10日間ほど滞在しながら、東照宮、中禅寺湖、日光湯元温泉などを見物して廻っている。その後、鬼怒川渓谷を遡行し、本格的な冒険旅行を開始する。山王峠を越えて会津に入り、会津田島から阿賀野川に抜け、粗末な伝馬船で新潟に下り、そこから日本海側を歩いて、荒川の小国街道を米沢へに抜け、さらに山形盆地を北上し、尾花沢、横手、大館経由で青森県碇ヶ関、黒石に至り、青森から蒸気船で函館に渡っている。要するに、すでに外国人も沢山歩いていて、よく知られている東海道、中山道、奥州道など、主要幹線道路をすべて避け、ろくな地図も道路もない東北の田舎道を選んで辿っているのである。イギリス人の冒険心の真骨頂である。バードが宿泊した日光の金谷邸と大内宿の庄屋、阿部家の建物は、当時のままの姿で現存しているという。

 日本人の手になる旅行記は、得てして自国に対する思い入れや感情が災いして、なかなか客観、虚心坦懐には書けない。どうしても贔屓目や美化や反発が混じり込む。同じことを外国人が書けば、変な思い入れや主観が伴わないだけに、見たまま感じたままを客観的に文章化する。特にこのイギリス婦人の旅行記は、本人が努めてそう言う書き方をしていることもあって、明治初期の日本の風景や社会状況の優れたドキュメンタリーになっている。友人に説明する手紙の文体で書かれているので、事細かな状況説明や風景描写がいっそうの効果を高めている。いかなる歴史書も教えてくれない明治初期の日本がよく分かって面白い。

 全般を通じて言えることは、未開国日本に対する好意的見方である。特に緑豊かな自然や風景に対しては絶賛に近い。その素晴らしさは母国イングランドやスイスの景勝地にも勝るとさえ書いている。人々の暮らしぶり社会状況についてはそれほど好意的ではない。いかにも貧しい途上国の風景や習慣にうんざりした様子があちこちに出てくる。辺鄙な村の住民の、裸同然の汚れた衣服、悪臭を発する粗末な食事、泥だらけの不完全な道路、例外なく蚤の大群に襲われる宿など、文中で繰り返し嘆いている。どこでも出される“悪臭がする味噌汁と沢庵だけの食事”は、最後まで彼女の口に合わなかったようだ。当時の世界一の超大国イギリスと比較した明治初期の日本は、さぞ貧しく見えたのだろう。

 特に鬼怒川から山王峠を越えて会津に至る村々の描写は凄まじい。日光までの道程と、新潟から山形、青森にかけての比較的穏やかな記述と違い、この地方の際だつ貧困と村々の荒廃は、バードにとってもショックだったようだ。梅雨時期の泥濘の山道を歩く難行苦行もあって、こんなところに来るのではなかったと言う後悔の念も見え隠れする。この街道は戊辰戦争の会津攻めの際、官軍が大挙して押し通ったところである。その際さぞ暴虐を働き、地域住民を痛めつけ、村々を破壊したのだろう。そのことは田島から会津若松に至る荒廃した道中の描写からも伺える。このあたりでは良い印象は一つも書かれていない。当時の会津は荒廃した敗戦地だったのだ。

 バードは周囲の反対を押し切って、終始イトウという通訳兼案内人の若者だけを連れて旅をした。 道中の交通手段は、たまに利用出来る人力車、馬以外、すべて徒歩である。人力車は比較的大きな街の周辺でしか使えない。馬は人を乗せたことがない農耕馬しか手に入らず、しばしば落馬したりずり落ちたりで、「歩いた方がマシ」ぐらいの乗り心地だったとこぼしている。江戸時代、乗馬は武士階級だけのもので、農民や商人は馬に乗る習慣がなかったことが分かる。当時、横浜、新橋間にはすでに鉄道が開通していて、バードも乗っているが(事細かに乗車の様子が書かれていて面白い)、それ以外は鉄道はおろか、車馬の通れる道路もほとんどなかった。遅れた東北地方は特にひどかった。それ故の道中の苦難がたびたび繰り返し書かれている。

 バードは実に好奇心旺盛な女性で、行く先々でその地の宴会や結婚式、葬式に頼んで参加させてもらい、そのしきたりや風俗習慣、宴会料理のレシピなどを事細かに手紙に書いている。出来たばかりの学校や病院や紡績工場を見学し、その印象を記している。当時の日本を見知らぬ我々にも大いに参考になる。結婚式や葬式に出るときは、日本女性の着物を着せてもらい、外国人と分からぬ工夫もしている。外国人を見かけたことがない東北の村々では、どこへ行っても何百人の野次馬に取り囲まれ、辟易していたのだ。それほど多くの野次馬が集まっても、皆静かに見ているだけで騒動が起きることはなかった。バードはそのことにも感心している。

 特記すべきは、バードの目に映った日本人の礼儀正しさ、道徳観、勤勉さと、際だった社会秩序についてである。初めのうちの記述はそれほどでもないが、旅を続けるうちに次第に評価が上がり、賛辞に近い書き方に変わってくるのが興味深い。彼女の目で見た当時の日本人は、階級や貧富を問わずおしなべて道徳的で礼儀正しく、誰もが勤勉で子供を可愛がり、家族を大切にする。貧しい村でも怠け者や物乞いを目にしたことがない。初めて目にする外国人を好奇の目で見るようなことはあっても、不愉快にさせるようなことは決してしない。どんな田舎でも社会秩序が保たれていて、旅の途中で危険な目にあったり、金品を盗まれたことは一度もない。来日前の上海で、疲弊した植民地の社会状況を見てきた目にはさぞ新鮮に映ったのだろう。

 彼女はこの日本旅行の後朝鮮に渡り、李朝末期の朝鮮をつぶさに見て、同じような旅行記、「朝鮮紀行」を書き残している。当時は日本も朝鮮も極東の同じような未開の国。どのような対比で書かれているか興味がある。さっそく図書館で借りてこよう。

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