【伝蔵荘日誌】

2012年9月3日:小さな我欲がもたらすもの GP生

 家の近くの商店街に、戦前に建てられた古い木造の二階家がある。 家主は近県の都市に居住している。 借主は自分が子供の頃から居住しているから、何十年もここに住んで居る事になる。 家賃は何十年も前の価格で、近隣の相場からすれば半分以下だ。しかも、家賃を供託している。何十年か前に、家主が賃料の値上げを要求したところ、借主が拒絶し、立ち退き要求にはに、法外な金銭を要求した。両者、協議が整わず供託となり、現在に至っている。 紛争の当事者はすでに死去してこの世に居ない。借主は2代目、貸主は3代目となり、積み重なった怨念が理性的解決を妨げている。 貸主が高齢の為、子供たちに怨念付き物件の相続を避けようとして、弁護士に解決を依頼した。

 この建物は、自分が親から相続した土地に建っている。 自分の祖父の代に貸した土地だから、こちらも3代目となる。 紛争の経緯については、親からさんざん聞かされた。親も頭を痛めていたが、借地権に関しては地主と言えども手が出せない。 自分もさわらぬ神にたたりなしで、僅かな地代で甘んじてきた。 家主側の弁護士から連絡を貰い、昨年来話をしているが、上手く収まる収拾策は見つからない。

 貸主は法外に安い家賃に甘んじ、地代を支払えば僅かしか残らない。 借主は戦前の古い建物の維持を自前での負担を強いられている。 以前、地主の立場で双方から話を聞いたことがある。結果は、双方から、相手に対する不平不満と積年に亘る恨みつらみを聞かされて終わった。ここに至っては、古物蒼然たる木造物の自然倒壊を待つしか、解決は無いように思える。

 問題の発端は初代借主が家賃の値上げを拒絶したことにある。値上げ幅は世間相場に即した常識的なものであつたと聞いている。 拒絶理由は、少しでも損をしたくないとの、借主の小さな我欲であった。 二代目、三代目の各当事者の悩みは全てこの小さな我欲の結果によってもたらされた。 当事者がこの世を去って時が経過しても、悩みが増幅されただけだ。自分にとっては喉元に刺さった、小さな棘みたいな感じだ。 この怨念付き土地・建物についての問題は自分の代で終わらしたい。四代目には相続させるようなものではないからだ。

 人は食欲、性欲、金銭欲、物質欲、名誉欲等々を有し、その欲望には限りがない。 ましてや小さな我欲は、生きていく限り無限に続くものだ。 人がこの世に生存できるのは、人の持つ欲望の存在なしなには考えられない。一方、人は社会的生き物だ。この世で独りでは生きられない存在だ。自身の我欲をあからさまに押し通せば、他との軋轢は不可避となり、何処とでも同じ状態となれば社会的孤立に陥るだろう。中には、それで良しとする強靭な精神を有する人も居るかもしれないが、少数者だ。大多数の人は我欲と他者との間に、何らかの折り合いを付け、調和を図ろうとする。 それは人として当然の行為だ。

 先の木造家屋の家賃値上げに際して、借主が貸主の立場を考え、周囲の相場を調べ、貸主と真摯に向かい合い、妥協点を見出す努力をしていれば、何十年に亘る双方の係累者の不幸な状態は避ける事が出来た筈だ。賃貸マンションの運営者の立場からしても、家賃の設定は極めてデリケートな事柄で、自身の損得だけで決めてはならないと考えている。 借主と貸主との間で、家賃を含め信頼関係が築けなけれは、大家は務まらない。 双方の円満な関係があってこそ、居住者には満足を、大家には空室防止に繋がっている。 しからざる例は、周辺に幾らでもある。

 古いビルの一階の奥に小さな喫茶店がある。物静かな若いカップルが独特の乾菓子をネットと店頭で商っていた。 以前、純喫茶を営んでた中年カップルから、内の設備を買い取って開業した。この純喫茶は、時代の流れもあり、減少する固定客以外、新規のお客を獲得できずに経営が行き詰った。設備の売却に際し、法外な値段を設定した。通常それの三分の一が適正価格だ。客が付くかハラハラしていた。 居抜価格は大家が口を挿めるところではない。所が、程なくして、若いカップルが、言い値で申し込んできた。 奥まった場所にある隠れ家的雰囲気が、余程気に入ったようだ。 若いカップルは菓子の食材の供給源たる北海道の田舎で生活をする夢を持っていた。

 特徴ある乾菓子はよく売れた。土日には小さなお店が人で溢れることも在った。法外な居抜料を支払ったにも拘らず、数年にして、賃貸解約の申し出を受けた。北海道暮らしの資金が準備できたという。 解約に際して、彼らが設定した設備の売却価格は、購入時の四分の一以下であった。 買ってくれる人がいればよいとの事であった。 彼らの心は、北海道での生活への想いで一杯であったようだ。彼らにとって、金銭は手段に過ぎず、目的ではなかった。 その無欲が、彼らに成功をもたらしたように思える。

 現在は北海道南部の景勝地で、乾菓子の通販を営んでいる。 旧経営者は世間相場をはるかに上回る金銭を得たかもしれないが、唯それだけのことだ。 ネットで検索すると、北海道の若いカップルは、あの清々しさを彷彿とさせる乾菓子を販売していた。林の中にたたずむ店の写真は、一度は訪れてみたいと思わせる魅力に溢れている。テナントさんの発展的解約は、大家にとって「貸して良かったと思う」心豊かになる瞬間でもある。 彼らの後は、奥ゆかしいカップルが設備を引き継ぎ、喫茶店を経営している。経営者カップルの人柄と、他にない魅力の味覚は多くの客を引き付け繁盛している。

 二組の清々しいカップルの生き方に比べ、先般の民主党の消費税をめぐる茶番劇は、醜悪な我欲の展覧会にしか思えない。如何なる理屈を重ねようと、己の保身しか目が向かぬ、哀れな人間の集団にしか見えないからだ。

 「国民の生活が第一」をお題目にして離党した小沢某は、「自分の政治生命が第一」でしかない。元奥方に「放射能が怖くて逃げた」と暴露された所を見ると、「自分の命が第一」が本音だろう。 秘書達が罪人となっても道義的に恥じることもなく、証拠がないのを良いことに、裁判所でも、見え透いた嘘をつき続ける彼は、政治家以前に人間失格者だ。そんな彼に従う人間が居るのは、目先の損得判断の結果なのだろう。 国民の大多数から嘘を見抜かれ信頼を失った人間に、己を託する政治家達に哀れを感じるのは自分だけだろうか。 我欲にまみれると、あたりの景色が真っ当に見えなくなるのは真実だ。

 離党届まで親分に託しながら、世論の流れで不利と見るや、離党撤回を図った代議士達の哀れな我欲。 党内融和を旗印に誰が見ても不可解な調整で国会を混乱させた、鵺みたいな幹事長の心は「参議院議長就任」への我欲にあるようだ。小さな我欲にまみれている彼らの本心は、国民にはお見通しだ。 テレビ画面にアップされる彼らの「悪相」を見れば、理屈抜きで本性が透けてくる。

 彼らの小さな我欲が国民を呆れさせ、政治への無関心を駆り立てるだけでなく、廻り廻って、日本国の衰退に手を貸していることが問題だ。何時の時代にも、責任ある立場の人間の小さな我欲が、国家と国民に大きな災いをもたらすことは、歴史的事実だからだ。

 我欲と言う名の自己保存は、人間の宿あだ。 これの克服は現世を生きる者にとって、真摯に向かい合わねばならぬ大事であろう。我欲は人それぞれの本性が色濃く現れる属性だ。 我欲をコントロールする「知・情・意」もまた人の属性だ。これ等が重層的に重なり、人の個性を作っているとすれば、合算して「人間力」として表現されることになる。人生の終末に近付いている高齢者にとっては、現世での人間力の成果が問われる年代でもある。 先の政治家諸氏も人間力が試されている筈だが、果たしてその自覚はあるのだろうか。

 人がこの世に生を受け、生きていく目的の一つは、「調和のとれた心」を慈しむことにある。心を中心にして内在する「知・情・意」のバランスが保たれる様、努力をすることだ。 「知」「情」「意」夫々の輪がより大きくなり、中心のハートがさらに膨らむとしたら、人が成長した証となろう。

 小さな我欲が「知、情、意」のバランスの中で消化されれば、他者と調和された関係を築くことが出来る。 人がこの世だけの存在であれば、我欲丸出しの一生を送っても、満足感を以て死を迎えられるかもしれない。 残念ながら、人の魂は死して天上界に戻り、時を得て、再度この世に生を受ける存在だ。調和とは縁遠い、偏った生活であれば、死して後、長く厳しい反省を強いられるあの世が待っている。

この世で小さな我欲を押し通し、自己満足と何がしかの物質的、現世的利益を得たとしても、その後にもたらされるものは、反動的事態や係累者へ及ぼす災いだけでない。 自身も死後に、己の犯した過ちと係累者を苦しめた償いの為の、永く厳しい世界が待っている。 このことからして、小さな我欲を追い求めることは、決して割の合うことではないのだ。 目先の損得を追い求めれば求めるほど、遥かに長い人生スパンでの損得勘定が見えなくなるものだ。この世とあの世の摂理を知ることは、迷い多き現世を間違いなく生きる事に繋がる大事だと思っている。  

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