【伝蔵荘日誌】

2012年8月20日: 余命僅かな友への見舞 GP生

 小学校の同級生であるKa君は、現在緩和ケアーホスピタルの病床で、末期ガンに侵された体を横たえている。 身体で可動出来るのはわずか左手のみ。頭を左右に動かすことも叶わない。 意識は鮮明で僅かに唸るように発する言葉と目の動きで自分の意思を表現する。但し、右耳は一切聞こえず、左耳傍で語る必要がある。 余命一ヶ月と宣言されてから、既にその時が過ぎたが、頑張り続けている。

 先日、Ka君の奥様から電話を貰った。「先月半ば、Ka君が家で呼吸停止となり、居合わせた訪問介護士の救命措置により一命を取り留め、救急病院に入院。その後、現在の病院に転院した。大腸に発したガンは、肝臓、腎臓、肺、リンパに転移し、治療の方法は無い。先日、友人がお見舞いに来てくれたのを喜んでいた。」との話を聞いた。自分は小学校クラス会の雑用係として、各種連絡の際に、Ka君の奥様と何回か電話等の遣り取りがあった経緯から、Ka君の緊急状態を連絡してくれたものと思われる。

 昨年秋のクラス会の連絡時にも奥様から電話を貰った。「腸が閉塞し、手術したが手の施しようがなく、食事がとれなくなった。胃ろうで栄養補給が出来るが、自分の作った食事を食べてもらえない事は悲しい。主人の食事を作るのが唯一の楽しみだったのに。」と電話口で涙している様子が手に取る様にわかった。今回の電話でも「主人と一緒に死にたい」と涙声であった。「Ka君の余命が幾ばくも無いとしたら、辛いことだが、彼が心身の苦しみを感じることなく、あの世に旅立っ手助けすることが、奥様の最後の役割だと思う。彼に対するお気持ちは良く理解できるけれど、ここに至っては、気丈に彼を見守ってあげる事が大切だと思う。」と話した。 話している自分も次第に涙声になるのを、止めることが出来なかった。

 翌日、一人で彼の見舞いに出かけた。 この病院は自分の母が最期までお世話になり、現在も家人が時々お世話になっているので、勝手は良く分かっている。時間が早かった為か、病室に奥様は居らず、Ka君独り横になり眠っていた。「Ka君」と何回か声をかけると、薄っすらと目を開け、少し焦点の定まらない目で、自分の顔をじっと見ている。 眼と脳の回路が開かれないためか、直ちには誰だか分からない様子だ。更に何回か名前を呼び、クラスメイトの話を始めると、次第に目に反応が出てきた。 共通の友人であるKo君が今年のクラス会の散策中、痛めていた膝が悪化して歩けなくなった話をしたら、顔全体で笑っていた。右手は麻痺している為、血行最悪で浮腫み、丸太状に膨れあがっていた。右足も同じ状態で、唯一動かせる左手は保護グローブを付けていた。 目と顔の表情、それに左手の動きで意思の疎通は可能であった。 その日は15分程で退室した。

 病気になった高齢者の知人、友人のお見舞いは躊躇することが多い。 自分が倒れた事、入院した事を知られたくない思いの人は結構多いものだ。見舞自体が迷惑行為となる。 ましてや、再起不能、余命幾ばくもない高齢者の友だとすれば、お見舞いは難しい判断となろう。 Ka君の場合、奥様の暗黙の依頼を信じてお見舞いに行った。 最初から、複数人でのお見舞いは憚られた。

 帰宅後、Ko君とクラス委員のTa君に電話をし「旧友の見舞はKa君が喜んでくれる」旨の話をし、翌日、三人でお見舞いの約束をした。その日の夜、Ka君の奥様に電話をし「Ka君が喜んでくれたので、明日、Ko、Ta両君と一緒にお見舞いする」旨、話をした。三人で病室に入ると、Ka君は目を覚ましていた。奥様も待っていてくれた。Ka君は三人の顔を見ると満面の笑みを浮かべた。此の顔を見ただけで、再度お見舞いに来てよかったと安堵した。

 三人の見舞人と患者、それにKa君の奥様と計5人となると話題に事欠かない。話を聞いているKa君の心が活性化してくるのが手に取るように分かる。ガン患者の体温は極めて低い。35度を切ることも稀ではない。話は他の人に任せ、Ka君の左手と左足の脛部をそれぞれ軽く握り、温熱を加える事とした。20分程度気持ちを集中し継続した。 Ka君は気持ちがいいと言う。お世話になっている、整体師によると「人は意識しなくとも気を発している。患部に手を当てれば間違いなく気が注入される」と教わった。真似事だけれどKa君は喜んでくれた。 一時間近い滞在の後、帰りがけに自分の名前を呼んで「あ・り・が・と・う」と礼を言われた。

 一日置いて、Ka君と仲の良かった同級生の女の子SuさんとKo君、それに自分の三人でKa君を見舞った。 Ka君の雰囲気が少し違うので、良く見たらKa君の鼻に着けていた酸素吸入器が取れていた。 前回の訪問時と異なり、顔に赤みがさしており、生き生きしている感じだ。 奥様の話だと、昨日から吸入器が取れ、Ka君が今までにない元気さだと言う。 たどたどしいけれど、今まで以上にKa君が積極的に話しかけてくる。 女の子のSuさんが居るからだけでは無いようだ。

 入れ替わり、立ち代りの見舞が、Ka君の心に何かをもたらしたことは間違いない。 Ka君は27年前に難病に侵され、その半分以上の時間を車椅子での生活、更に晩年数年は寝たきりで、入退院を繰り返して来た。 奥様を中心として、子供さん達の献身的介護や、何人ものお孫さん達の励ましで現在に至っている。彼は車椅子で何回かクラス会に参加した。 近場での送り迎えは、奥様であり娘さんであった。 横浜では車椅子でカラオケマイクを話さずに歌い続けたことも在った。 宴会では多く語らず、いつもニコニコと周りの話に耳を傾けるのを常とした。 従って、Ka君の闘病中の心情は如何ばかりか、彼は黙して語らないので推測するしかない。

 同級生の誰に聞いても、Ka君は大人しくて素直な性格だと言う。成人となっても変わらない事は、 クラス会で会う度に良く分かった。 27年に亘る要介護生活でも、自身に課せられた運命と、家族の介護努力を素直に受け入れて来たのだろう。 でなければ、気持ちが萎えてしまうであろう長期にわたる要介護生活で、あれだけ明るく振舞えるはずがない。横浜でのクラス会の時に、車椅子に乗るKa君を、Ko君と一緒に電車で同行した事がある。 彼は素直に喜んでくれた。そこまでの心情には、中々達することが出来るものではない。

 ガンが全身に転移して久しいが、治療の手段がないため、放射線も抗ガン剤も処方されていない。 お蔭をもって、ガンによる痛みに悩まされていない。痛み止めのモルヒネも不要の為、身体を動かせなくても、意識は明瞭だ。 人としての尊厳を保ちながら、家族や友人と会話、時には声を出して笑いながら生活している。 余命一ヶ月はとうに過ぎた。 十数種類のアミノ酸、ブドウ糖、各種ビタミン、ミネラルの点滴で基礎代謝分を補っている。中村仁一先生の「大往生したければ、ガンで死ね。但し、治療はするな」を地で行っている思いがする。

 27年の介護を、経済を含め献身的に支え続けた奥様の努力には頭が下がる。家族のチームワークの中心に奥様がいる。奥様の携帯電話の待受け写真は「ベットのKa君と会話している奥様とのツーショット」だ。 「Ka君が好きでたまらない」と涙声で自分に話す姿は、世の夫婦の鑑だ。肉体は健康でも、心が互いに荒んだ夫婦もいるし、子供も孫もいない家族も多い。Ka君ご夫婦を見ていると、夫婦の真の幸せとは何かと考えさせられる。お互いを信じ、愛し合い、一生を共にする夫婦は少ない様に思われる。 肉体に不治の病を抱えたとしても、心一つの二人三脚で、70歳の坂を共に登りつつある人生は羨ましい限りだ。 夫婦何れかが途中で力尽きてとしても、幸せな一生であったと言えるのかもしれない。

 見舞いの我々同級生は皆同い歳で、日常生活に不自由を感じない程度の身体の健康を、現在は保っている。 しかし、時間の差はあれど、Ka君の病床の姿は、いずれ自分にも訪れる姿だ。 病床の友へは、いずれ訪れるであろう己の姿と重ね合わせ、残された時間が僅かであろうとも、苦痛の少ない安らかな時を過ごしてもらいたいと心から願っている。

 Ka君は長年にわたり、身体不自由な生活を強いられて来たが、己の不幸を恨むことなく中年以降の人生を送ってきたように思える。 奥様に見せてもらった、入院10日前の写真には、沢山の家族に囲まれた病床のKa君が笑っている姿が映されていた。Ka君は幸せいっぱいに思えた。何れ訪れるであろう、自身の人生の終末を如何なる状態で、如何なる心情で迎えるかは今は想像できない。 けれど、その時が至った時に、病床のKa君やご夫婦の姿をダブらせることになろう。 死を目前にした友の姿とご夫婦の有りようは、同年齢の自分に多くの示唆を与えてくれる。Ka君の余命が終末を迎える時、穏やかな終焉であることを願ってやまない。  

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