【伝蔵荘日誌】

2012年7月18日: 大津・中学生自殺と人間力 GP生

 大津市の中学生が昨年10月、マンションから飛び降り自殺した。 今年の2月に中学生の両親が、同級生3人のいじめ行為により、息子が自殺に追い込まれたとして、三人の親と大津市を相手に損害賠償を求める民事訴訟を起こした。 この訴訟により「いじめ」が世間の知るところとなり、大きな社会問題となった。

 連日報道された、中学生に対するいじめの実態を知るにつれ、中学時の同級生であった故Si君の事を想い出した。 自分は東京西部にある私立学校で中高6年間を過ごした。 Si君とは最初から同じクラスで、いつの間にか自分達の仲間となった。 彼は山好きで、自分達の登山には、いつも彼の姿があった。 Si君は大人しい性格で自己主張は極めて苦手、真に親しい人以外、自己を主張することはなかった。身体も小柄、細見で、如何にもひ弱に見えた。そんな彼がクラスではいじめの対象になり、クラスの悪にいびられることが多かった。 彼が補欠入学であることも侮られた要因の一つだった。

 そんな彼を自分達グループでカバーした。 学校は最寄りの駅から徒歩三十分の場所にある。 或る時、何人かの生徒が帰り道で、Si君を待ち伏せ居るとの情報が入った。 仲間何人かと一緒に帰り、彼を守ったことも有った。 悪連中もSi君に仲間がいる事を知って、あくどい「いじめ」は次第に影をひそめていった。 いじめと言っても、現在の様な陰湿極まりないものではなかった。 高校卒業後、彼は家業である酒屋の配達帰りに、交通事故によりこの世を去った。 20歳にも満たない、短い一生であった。 自分の受験浪人時代の事で、彼の仏前で死後の冥福を祈った記憶が鮮明に残っている。

 今回、生徒に対するアンケート調査で明らかにされた「いじめ」の実態は、「いじめ」などと表現されるような、生易しいもので無いことを知った。 暴行、恐喝、不法家宅侵入、窃盗であり、立派な犯罪行為だ。しかも陰湿極まりない残虐さを以てだ。 もし、大人でもこのような行為が毎日繰り返されたとしたら、とても平常心を維持できないだろう。「ぼく、死にます」との加害者少年に発信したメールに対する返信は、「死ね、死ね、もう死んだか」であった。

 携帯電話やテレビゲームに象徴される、仮想現実と実際の現実に対する境界が認識できなくなることで、人の死に対するリアリティーを喪失する話は、よく聞くことだ。 ゲームでの死はワンタッチでリセット出来る。 加害者少年たちは如何なるメンタリティーを以て、少年にこれ等の行為を繰り返したのだろうか。 数十万円に及ぶ金をカツアゲし、更に金を奪うための恐喝行為なのだるうか。弱いものをいたぶる快感からなのか。

 「いじめ問題」に対しては、常にいじめられる側の人間が必要以上に掘り下げられ、「何故、他に助けを求めないか」的な議論がなされる。 真の問題は、いじめられる側にあるのではなく、いじめる側にある。 中学時代は子供から大人の意識に替わる大きな転換期だ。 心の成長は個人差の世界で、人が持って生まれた個性と家庭環境の違いから、意識の成長速度はそれぞれ異なる事になる。 いじめた少年、自殺した少年双方とも、人として未熟な存在であることに違いはない。 「いじめ」の80%が中学校に集中していることからも、子供から大人への転換期の現象ととも言える。

 加害者少年達の未熟さ故の暴走を未然に防ぐことが、被害者少年の悲劇を防ぐことに繋がる。 加害者少年の視点からの論議が、余り見られないのは何故だろうか。 加害者少年に対する、人権保護とかへのマスメディアの過剰な配慮は、事の本質を見失わせる。 彼等が、何故加害者となったか、また、加害者少年達がこれから受けるであろう報いと償いが、如何なるものとなるかを、世の中に明示することが同様な事件への大きな抑止力となろう。

 学校や教師達は、生徒達を未熟な存在と認識し、知情意のバランスのとれた人間に成長させる手助けをする役割を担っているはずだ。 大津の中学校長の記者会見をテレビで見た。 これが900人近い生徒を預かる学校長かと慄然たる思いで眺めた。 責任者である当事者意識がまるでない。 「いじめ」の存在を認識しなかったことにすれば、学校長としての責任が逃れられると勘違いしているような答弁であった。 己の不作為が、庇護下にある生徒を自殺させ、自ら監督責任がある3人の生徒を犯罪者に仕立てた。 教育者としての経歴に瑕疵を付けたくないだけの理由で、「いじめ」が無かったように学校ぐるみで隠蔽した。 天網恢恢疎にして漏らさず。結果は、最悪の責任を追及される場に立たされた。

 この校長は中学生並みの未熟な人間の様にも思える。 報道されている限りでは、自殺した生徒の担任教師も学校長と同類項だ。 日々、生徒たちと接していれば、生徒間の異常は察知できる筈だ。 感知できなかったとしたら、極めて低レベルの感性しか持ち合わせていないか、問題の自然消滅を待つ無責任人間かで、いずれにしても教師失格者だ。如何なる組織の長であっても、自分の部下の人間関係の絶えざる把握は、管理業務の基本的要諦だ。 ましてや、未熟な生徒達への指導を職務とする教師でないか。

 いじめられた生徒にとって、助けを教師に求めるとすれば、生徒から信頼され、敬意を受ける教師でなければならない。 生徒から信頼されない教師に、誰が助けを求めるものか。 「いじめ」情報を提供した女生徒の話に、真摯に対応すらしていではないか。 2度にわたる、全校生徒等のアンケート調査結果を隠蔽する様な教師連中に、生徒が信頼感を持てるはずがない。

 息子が中学一年の時だ。偶然「いじめ」の現場に遭遇した。 下校途中の道で息子が4,5個の肩掛け鞄をぶら下げ、歩いていた。「お前、何しているのだ」と声をかけると、周囲にいた同級生が我勝ちに、息子から鞄を奪い逃げ去った。 息子に聞くと「ジャンケンに負けた」と言う。 「それはウソだ」と直感した。 息子のプライドがそう言わせたのだろう。 直ちに学校へ向い、担任のSa先生に面会し、事情を話した。 その後しばらくして、息子がクラスのリーダーである、Na君達グループの仲間になったのを知った。 Sa先生の配慮であることは推察される。 その後、息子に対する「いじめ」は無くなった。 教師と生徒の間に信頼関係が有ってこその結果だ。

 当時、学校自体も「いじめ」や「不良化」で荒れていた。 荒れる中学校として周囲でも評判にもなった。 父兄の努力もあって、校長と教頭が更迭され、その後、生徒は落ち着き、学校に平穏が戻った。 大津の中学校校長が記者会見で見せた、落ち着きのないヘラヘラ笑いや、焦点の定まらない眼を見れば、この学校でかくも深刻な犯罪が発生した理由は想像に難くない。 PTA総会に於いて校長自らの意思で、自殺した生徒の魂に詫び、鎮魂のための黙祷すら発想出来ないお粗末さだ。 校長と其の他の教員達との人間関係もお寒い限りだろう。 人間力の未熟な校長の存在が、悲劇を生んだ根底にある。

 学校評価制度の弊害を言い連ねる識者も多い。 しかし組織を替え、評価法を替えても、運営するのは人間である教師だ。 どんな組織でも完璧なものなど在りえない。 結局、組織に命を吹き込むのは人なのだ。 医者は人の生命を左右し、教師は人の未来を左右する。 人を扱う生業に従事する人間に求められるのは、然るべき人間力だ。 如何なる職場であっても、如何なる組織であっても、己の未熟さ故の失敗を、環境のせいにしてはいけない。 自らの至らなさ故の事態を、真摯に受け止められぬ人間は、責任ある立場に立ってはいけないのだ。 人は己の失敗や部下の不始末の為に、重大な責任を問われる事は何時でもある。この時、責任者としての人間力が試される。 真正面から立ち向かい、絶対に問題から逃げない事だ。 命までは取られないと腹をくくるしかない。

 遅ればせながら、警察が犯罪捜査に乗り出した。 民事裁判の経過と合わせて、何れ、事の真相が白日の下、明らかにされるだろう。 14歳を境にして、刑法上の扱いは変わるにしても、3人の加害者少年達は犯罪者となる。 彼らの今後の人生を考えた時、いばらの道が待っている。 被害者少年は自殺したことで、あの世での厳しい時を過ごすことになるだろう。 この世とあの世との違いがあっても、前途ある少年たちをかくも過酷な人生に追い込んだ責任の多くは、自己保存に囚われ、職務放棄した学校長以下教師達にあるのだ。

 子供の教育は学校のみの責任ではない。 家庭と学校の両輪が正常に回っている事が必要だ。 しかし、家庭の状態は千差万別だ。 必ずしも、全ての家庭であるべき教育が行われているとは限らない。 だからこそ、学校は子供達にとって最後の砦なのだ。 大津の中学校長以下教師達は、子供達の庇護者であるとの自覚があったのだろうか。 大津市の教育委員長の対応も、二転三転する言を弄し、記者会見でもしどろもどろだ。 彼も、市の教育界の頂点に立つには、余りにもお些末な人間力しか示すことはできなかった。 大津市の教育界が、彼等の様な人間ばかりでない事を祈りたい。

 今回の大津市の「いじめ」問題を巡る一連の騒動は、大津市だけの問題ではなく、日本の何処でも起こり得る問題だ。日本民族としての誇りと自信を失い、目先の自己保存に汲々とする日本人ばかりとなれば、日本国は滅びるしかない。 日本の未来を担う子供達の教育こそが、明日への希望なのだ。 老後の安寧を求め、為すべきことをせず、事ここに至っても己の責任回避に汲々とする哀れな大人達の姿が、子供達にとって反面教師になればよいのだが。

 文科省に報告されている限りでは、全国的にいじめは減少傾向にあるものの、中学生が8割を占めると言う。 学校評価が導入されて以来、自校の評価低下を恐れる学校当局が隠蔽する傾向があり、必ずしも減少していると考えられない恐れがある。
 

目次に戻る