2012年6月26日: 懐かしき友への想い GP生 ![]() 小学校同級生でジム仲間でもあるKo君は、日頃クラス会の仲間は兄弟みたいなものだと言っている。 卒業して50年以上の間の人生を、お互いに知らない。 この間の喜びや悲しみを感じ取ることはできない。 記憶に残っているのは12歳迄の子供の頃のものだ。 初対面では顔に微かな記憶があるが、名前が浮かばない事すら多かった。 女の子は殆ど結婚しているので、「旧姓誰誰です」と挨拶をしていた。 顔を見つめていると、次第に古い記憶が蘇ってくるから不思議だ。 同時に懐かしさが、じわじわと心に湧いてくる。思春期、青年期、壮年期を一足飛びし、子供時代から初老期にワープした様なものだ。 最初の出会いは少しよそよそしいが、回を重ねる度に心が打ち解けてくる。子供時代の延長からの再出発だから、Ko君の言う兄弟みたいな親近感が湧いて来るのかもしれない。 女の子の存在は大きい。70歳を過ぎた女性に対して、女の子呼ばわりは無いと思うが、仲間内では女の子の呼称がぴったりくる。 男同士の会話に、女の子が加わると雰囲気は一変する。 男女間の会話では女の子の方が饒舌だ。 男女を問はず共通しているのは、皆良くしゃべることだ。 公園を散策しても、休憩のコーヒーブレークでも、宴席でも、グーループ同士での話が止まらない。 解散後もほぼ全員二次会の喫茶店で話が続く。 遠隔地開催の場合には、帰りの電車の中で遠足の小学生並みのはしゃぎ方である。 ![]() 中高同期会は6年間同じ学校で過ごした共通項を持つ。 しかも12歳から18歳までの心身の変化が激しい年齢だ。 男子校故、女子はいない。 これが独特の校風を醸し出していた。 同期会でも当時の親しかった仲間たちと、付き合いのなかった友達とでは、接し方に違いが出てくるのは仕方がないことだ。 一番親しかった友人を数年前脳梗塞で失った。 親しかった友達が次々に居なくなったとしたら、同期会に出席する意欲は失われていくだろう。 「鉱山会」での仲間との共通項は、離島の鉱山勤務で苦楽を共にした経験である。 いつ会っても回顧談が話の主体となる。 身体を張り、命がけで職務を遂行した経験が、お互いの脳裏に刻まれている。 都会勤務のサラリーマンでは決して体験できない環境で得た人間関係は貴重なものだ。 自然を相手の厳しい職場環境で、目的達成のための上司、部下、同僚達と間での切磋琢磨は、若かった自分の人間形成に大きな影響を与えた。 けれど、かっての上司は最高齢90歳に近く、若い未熟な自分を叱り飛ばしてくれた課長、部長達は皆80歳を超えている。 車椅子や杖を突いて会場に現れる姿を見ると、懐かしさはひとしおだ。 ![]() 長期の合宿での5,6人のパーティーメンバーは、大げさに言えば生死を共にする仲間となる。 重い荷物に汗を流し、肌を突き刺す冷雨の中、一糸乱れず頑張り通したこともある。 飯盒の飯と粗末な副食を胃袋に流し込み、薄明かりのカンテラが灯るテントの中、山を語り、恋愛や人生を熱く語ったものだ。 その様な体験を何回も繰り返すことで、互いの人間性を理屈ではなく、肌で理解出来たのかもしれない。 社会的地位も身分も経済力も関係ない、利害関係もない若者同士が、濃密な環境を共有したことで、生涯忘れ得ない強固な人間関係が形成されたのだろう。 卒業後、社会人として、家庭人として苦労を重ね、世の中の塵芥にまみれても、時が離れていても、かっての仲間に会えば、記憶の底に沈んでいた共感が湧き上がってくる。 同期の仲間では、共感の想いは更に強いものがある。 ![]() かっての仲間たちとの定期的な邂逅に想いを馳せたが、人生を重ねてきた高齢者が迎える老後は、人それぞれだ。自身の残された人生に思いを致せば、誰でも、高齢者故の寂しさが込み上げてくるのが普通だ。 もし、人との交誼が希薄となり、近親者も心の友も仲間も居ない、孤独な高齢期を迎えざるを得ないとすれば、人の心はどれだけの寂寞感に耐えなければならないのだろうか。 新聞を時々賑わす死せる独居老人は、日頃何を想っていたのだろうか。 人生の残余が少なくなる程、友人、友達、仲間達との人間関係の存在は、生きる意欲の源泉となろう。 人間、幾ら頑張ったところで独りでは生きられない。 人と生れた以上、肉体がこの世に存在するだけでは、無意味だ。 高齢者にとって、信頼が互いを支え合う人間関係があってこそ、生甲斐が持てることになる。 人間関係の中でも、若き日に形成された友人、仲間意識は何物にも代えがたいものだ。 友人、友達、仲間たちと会える機会は少なくなっても、「あいつが、あの街で生きている」ことを思い、心の中で彼に問いかけた時、還ってくるであろう返答は「聞かずとも理解できる」、そんな仲間達が健在であるとしたら、素晴らしいことではないか。 友人、友達、仲間達との人間関係は、自身が生きてきた証であり、有形無形の財産だと思っている。 |