【伝蔵荘日誌】

2012年5月6日: 高齢者にとっての病と死 GP生

 最近、高齢者の突然死に関するメールを何通か貰った。 自分の周囲でも、高齢者の突然死や生死にかかわる発症の事例が多い。 自分自身の高齢化に伴い、知人、友人達も加齢を重ねるから、致し方のないことだ。 古希を過ぎれば、身体の在りようは、個人個人で全て状況が異なる。人間の肉体が生物体の一つにすぎないのだから、生命の賞味期限が何時切れてもおかしくはない。 残念ながら、肉体を構成する各臓器を自らの意思でコントロールすることはできない。 各臓器の在るべき活動に必要な栄養条件や負荷状態を通して、間接的にコントロールしているにすぎないのだから、臓器が突然の機能不全を起こしてもおかしくはない。本人の意思にかかわらずだ。政治の世界に限らず、ある年齢に達したら、人の生死は「一寸先は闇」と言えるのかもしれない。

 先日の分子栄養学勉強会の雑談で、もし「ガンと宣告されたら、如何するか?」が話題となった 。講師の先生を含め、メンバーの殆んどは60歳以上だ。ガンは最初の1つのガン細胞の分裂から始まり、発見可能な直径1センチ程度の腫瘍では、細胞数10億の多きに達する。 この段階でも「早期発見」と称する。この段階では部位にもよるが、手術による摘出は可能だから、医者は手術を勧めるだろう。問題は、医者からすれば早期だが、ガン細胞は10億の多きに達している。 この段階で転移の有無は神のみぞ知るだ。 従って、手術の後に抗癌剤処方となる。転移したかもしれないガン細胞に対処するためだ。 もし、転移してなければ、自分の肉体を傷めつけただけで終わる。 転移発ガンがなければ、医者は抗がん剤の効果と考えるだろう。 転移していたとしたら、抗ガン剤で全てのガン細胞には対処することは難しい。 正常細胞まで痛めつけられた身体の免疫力はガタ落ちになるから、生き延びたガン細胞に対処する手段はない。 再発に脅える日々が始まる。

 勉強会のメンバーはそれでも、「何らかの治療は試みる」人が圧倒的に多かった。 残された人生を考えた時、ガン宣告に如何に対処するかは、60代は微妙な年齢なのだろう。 ガンと宣告されて、そのままにしておくことは、何人も困難であろう。 風邪やインフルエンザに罹患すれば、人はすぐに医者に直行する。ウィルスを殺せる薬物がなく、栄養、休息、保温により自らの免疫力に依存するのが、ベストの療法であることを知っていてもだ。 ましてや「ガン」だ。

 発ガンに如何に対処するかは、年齢要因は大きいと思う。 自分の高校時代の恩師であるYa先生は80歳で胃、脳、食道に同時ガンが見つかった。 全て原発性との事。 本人、家族はもとより医者も治療をしないと決めたそうだ。 83歳でお亡くなりになる三か月前に、友人二人とお邪魔した。 2時間の歓談であったが、その間先生は大好きなピースを缶から取り出して喫い、少量のワインを楽しんでおられた。ガンは既に末期であったが、痛みや苦しみは無く、日常は専門のフランス文学の研究に時間をかけておられた。 先生が亡くなられたのが、何時ごろかは分からない。 朝、何時もの時間に起きてこないので、奥様が寝室に入ったら、既にこと切れておられた。 連絡を受けて、その日の午前中に訪問した 。ご遺体はまだベットの中で、今、目を覚ましてもおかしくない程の、安らかなお顔であった。

 もし今、自分がガンと告げられたとしたら、90パーセント以上の確率で「自然に任せる」ことになると思う。 三大治療を受けるつもりはない。 検査により、ガンの状態を十分把握したうえでだ。 但し、ガン細胞を刺激せず、体力温存と免疫力向上が期待できる、「高濃度ビタミンC点滴」と「免疫療法」を試す可能性は否定しない。 この場合でも、ガンと闘うという発想ではなく、殲滅は意識せず、人体に対する影響力を削ぎながら、共存を図る考えだ。 この年齢では、スキルスガン的な急速な進行ガンは考えなく良いと思う。 共存出来なかった場合は無駄な抵抗は試みず、諦めるつもりだ。

 最近読んだ本に「中村仁一著・大往生したければ医療とかかわるな--自然死のすすめ」がある。 特養ホームの常勤医で何十人の高齢者の最期を看取ってこられた方だ 。特養では、末期ガンに対して特別な手当はしていないので、ほとんどの人は自然死となる。大変印象深いのは、ガンによる自然死する人のほとんどは、意識が薄れ、外界の刺激に反応しなくなり、苦しむことなく、眠ったようにこの世を去っていくそうだ。 ガンによる腹水で膨れた身体は死ぬ時には、見事ぺちゃんこになっているとの事。 人体は腹水まで使い切っている。先生によれば、自然死とは「脱水と餓死」による死だそうだ。 この状態になると、モルヒネ様物質のエンドルフィンが分泌され、苦痛の意識は全くなくなる。脱水・飢餓にしても、死が近づくと喉も乾かない、腹も減らない。 生命力が衰えてくるのだからその必要は無いそうだ。 ここで、下手な延命措置を行えば、静かに死にゆく患者を拷問し、苦しめる以上の意味はないとのことだ。

 病院でガン治療と称して、「手術・放射線・抗がん剤」等でガン細胞を攻撃すれば、正常細胞まで傷つけられるから、結果的に苦しみしか生じないことになる。それでも、ガンが完治すれば目出度しなのだが、さにあらざる場合は、最後は患者は苦悩の中で死を迎えることになる。 病院の医者はこのようなガン患者の最期しか見ていないから、「ガン死は苦しみだ」が一般通念となる。人体の寿命が尽きようとしている患者に対して、何もしない事は医者の沽券に関わるとして、無駄な延命を行っている様に思える 。自分の父の死に際しても、同じ感想を持った。中村先生は「死ぬなら、ガン死に限る。但し、治療はしない事」と喝破しておられる。 この本を読んだ時、わが意を得た思いだった。

 人がこの世で生きるためには、肉体を必要とする。 魂は永遠の存在であっても、この世では魂だけで存在することは出来ない。 母体中の胎児には、ある時期が来ると魂が宿り、ここで単なる生命体から人になる。 子供の魂と母親の魂が異なるため、双方が調和するまで、魂間の相克が生じる。 このことは、肉体的には「つわり」として現れる。この世に誕生後、人は心と身体とを一体として生きていくことになるが、多くの人は肉体のみが自分であるとの錯覚の中で人生を送ることになる。

 ガンに限らず病を得て、苦しみや苦痛の中で肉体の終焉を迎える人は多いだろう。 心と身体の双方が自分であるとの認識がなければ、心に肉体の苦しみを深く刻み込んで、あの世に還ることになる。 この世での肉体の死は、あの世では魂の誕生だ。 誕生した魂が、この世の物である肉体の苦痛記憶を持っとしたら、誕生した魂はあの世でも肉体苦の記憶に苛まれることになる。この世の苦しみから逃れるために、自らの命を絶った者が、あの世の暗い穴倉状の中で、永い苦しみの中で生きるよりかは幾らかましかと思うが。

 人の肉体は強靭の様で脆い存在だ。 ましてや、生殖の義務を終え、生物としての役割が終わった高齢者にとっては、更に脆弱さを増すことになる。 「昔取った杵柄」と力んでみても、それはは昔の事で、衰えが加速している老齢期には適応外だ。 今日は元気でも、明日は判らない。 それが、高齢者の肉体が置かれた立場だと思う。

 だが、諦めるのはまだ早い。 対処の方法はある。 人は「心と身体」で成り立つ「色心不二」の存在であることを認識することだ。 その上で「身体」に対するケアーを行い、「心」の存在を意識することだ。人の肉体はいずれ死して自然に帰っていく。 70歳を過ぎれば人によって遅いか早いかの違いだけだ。 肉体が如何に維持され、機能しているかを知り、加齢がどのようにこれを妨げているかを学ぶことだ。 そうすれば食生活を含む生活習慣の日々の見直しにより、肉体の機能がその役割を終えるまで病を遠ざけてくれるはずだ。 例え、想いから少々外れても、苦しみの中でのた打ち廻る最後は避けられるだろう。

 「心」についてはさらに重要だ。 人にとり肉体死が避けられないものであるとすれば、その時が至るまで如何に生きるかは、「心」の問題だからだ。臓器に異常がなくとも、このまま加齢を重ねれば、生物体の宿命で発がんの可能性は誰も避けられない。 しかし、徒に脅えることなく、肉体の自然死を迎える心があれば恐れることはないと思う。 苦しみの中で死を迎えることなく、眠るがごとき自然死で人生を終えることが出来ることを知り、肉体の死はこの世での死であり、本来の自分はあの世で誕生することを考えれば、「死もまた楽し」の境地に達する可能性は誰にでもある。

 だからこそ、この世に生ある限り、いかに自分の人生を全うするかが、大切な命題となろう。 如何に死すかは、如何に生きるかと同義だと思う。あの世に還った時、後悔しないためにも、日々の生活の中で「過ちを改めるのに躊躇するなかれ」だと思っている。
 

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