2012年5月6日: 高齢者にとっての病と死 GP生 ![]() 先日の分子栄養学勉強会の雑談で、もし「ガンと宣告されたら、如何するか?」が話題となった 。講師の先生を含め、メンバーの殆んどは60歳以上だ。ガンは最初の1つのガン細胞の分裂から始まり、発見可能な直径1センチ程度の腫瘍では、細胞数10億の多きに達する。 この段階でも「早期発見」と称する。この段階では部位にもよるが、手術による摘出は可能だから、医者は手術を勧めるだろう。問題は、医者からすれば早期だが、ガン細胞は10億の多きに達している。 この段階で転移の有無は神のみぞ知るだ。 従って、手術の後に抗癌剤処方となる。転移したかもしれないガン細胞に対処するためだ。 もし、転移してなければ、自分の肉体を傷めつけただけで終わる。 転移発ガンがなければ、医者は抗がん剤の効果と考えるだろう。 転移していたとしたら、抗ガン剤で全てのガン細胞には対処することは難しい。 正常細胞まで痛めつけられた身体の免疫力はガタ落ちになるから、生き延びたガン細胞に対処する手段はない。 再発に脅える日々が始まる。 ![]() 発ガンに如何に対処するかは、年齢要因は大きいと思う。 自分の高校時代の恩師であるYa先生は80歳で胃、脳、食道に同時ガンが見つかった。 全て原発性との事。 本人、家族はもとより医者も治療をしないと決めたそうだ。 83歳でお亡くなりになる三か月前に、友人二人とお邪魔した。 2時間の歓談であったが、その間先生は大好きなピースを缶から取り出して喫い、少量のワインを楽しんでおられた。ガンは既に末期であったが、痛みや苦しみは無く、日常は専門のフランス文学の研究に時間をかけておられた。 先生が亡くなられたのが、何時ごろかは分からない。 朝、何時もの時間に起きてこないので、奥様が寝室に入ったら、既にこと切れておられた。 連絡を受けて、その日の午前中に訪問した 。ご遺体はまだベットの中で、今、目を覚ましてもおかしくない程の、安らかなお顔であった。 もし今、自分がガンと告げられたとしたら、90パーセント以上の確率で「自然に任せる」ことになると思う。 三大治療を受けるつもりはない。 検査により、ガンの状態を十分把握したうえでだ。 但し、ガン細胞を刺激せず、体力温存と免疫力向上が期待できる、「高濃度ビタミンC点滴」と「免疫療法」を試す可能性は否定しない。 この場合でも、ガンと闘うという発想ではなく、殲滅は意識せず、人体に対する影響力を削ぎながら、共存を図る考えだ。 この年齢では、スキルスガン的な急速な進行ガンは考えなく良いと思う。 共存出来なかった場合は無駄な抵抗は試みず、諦めるつもりだ。 ![]() 病院でガン治療と称して、「手術・放射線・抗がん剤」等でガン細胞を攻撃すれば、正常細胞まで傷つけられるから、結果的に苦しみしか生じないことになる。それでも、ガンが完治すれば目出度しなのだが、さにあらざる場合は、最後は患者は苦悩の中で死を迎えることになる。 病院の医者はこのようなガン患者の最期しか見ていないから、「ガン死は苦しみだ」が一般通念となる。人体の寿命が尽きようとしている患者に対して、何もしない事は医者の沽券に関わるとして、無駄な延命を行っている様に思える 。自分の父の死に際しても、同じ感想を持った。中村先生は「死ぬなら、ガン死に限る。但し、治療はしない事」と喝破しておられる。 この本を読んだ時、わが意を得た思いだった。 人がこの世で生きるためには、肉体を必要とする。 魂は永遠の存在であっても、この世では魂だけで存在することは出来ない。 母体中の胎児には、ある時期が来ると魂が宿り、ここで単なる生命体から人になる。 子供の魂と母親の魂が異なるため、双方が調和するまで、魂間の相克が生じる。 このことは、肉体的には「つわり」として現れる。この世に誕生後、人は心と身体とを一体として生きていくことになるが、多くの人は肉体のみが自分であるとの錯覚の中で人生を送ることになる。 ![]() 人の肉体は強靭の様で脆い存在だ。 ましてや、生殖の義務を終え、生物としての役割が終わった高齢者にとっては、更に脆弱さを増すことになる。 「昔取った杵柄」と力んでみても、それはは昔の事で、衰えが加速している老齢期には適応外だ。 今日は元気でも、明日は判らない。 それが、高齢者の肉体が置かれた立場だと思う。 だが、諦めるのはまだ早い。 対処の方法はある。 人は「心と身体」で成り立つ「色心不二」の存在であることを認識することだ。 その上で「身体」に対するケアーを行い、「心」の存在を意識することだ。人の肉体はいずれ死して自然に帰っていく。 70歳を過ぎれば人によって遅いか早いかの違いだけだ。 肉体が如何に維持され、機能しているかを知り、加齢がどのようにこれを妨げているかを学ぶことだ。 そうすれば食生活を含む生活習慣の日々の見直しにより、肉体の機能がその役割を終えるまで病を遠ざけてくれるはずだ。 例え、想いから少々外れても、苦しみの中でのた打ち廻る最後は避けられるだろう。 「心」についてはさらに重要だ。 人にとり肉体死が避けられないものであるとすれば、その時が至るまで如何に生きるかは、「心」の問題だからだ。臓器に異常がなくとも、このまま加齢を重ねれば、生物体の宿命で発がんの可能性は誰も避けられない。 しかし、徒に脅えることなく、肉体の自然死を迎える心があれば恐れることはないと思う。 苦しみの中で死を迎えることなく、眠るがごとき自然死で人生を終えることが出来ることを知り、肉体の死はこの世での死であり、本来の自分はあの世で誕生することを考えれば、「死もまた楽し」の境地に達する可能性は誰にでもある。 だからこそ、この世に生ある限り、いかに自分の人生を全うするかが、大切な命題となろう。 如何に死すかは、如何に生きるかと同義だと思う。あの世に還った時、後悔しないためにも、日々の生活の中で「過ちを改めるのに躊躇するなかれ」だと思っている。 |