【伝蔵荘日誌】

2012年2月22日: 日本の自殺 T.G.

 3月号の文藝春秋に「日本の自殺」というきわめて示唆的な巻頭論文が載っている。 最近の文春にしては珍しく骨のある記事である。 どこかで読んだことがある内容だと思ったら、37年前の1975年に掲載した論文の再掲だという。 文春は社会人になってから毎月購読を欠かしたことがない。 読んだはずだが、すっかり忘れていた。  内容はローマ帝国滅亡になぞらえた日本の衰退についての予言である。 40年近く経った今読んでもまったく違和感がない。 むしろ1975年より今日現在の方が、日本の政治社会状況や世相にぴったり合致するし、より説得力がある。 内容を要約すると次のようだ。

 「古来ほとんどの文明の没落は、外敵の侵入、征服や飢饉、災害によってではなく、自らの行為の挫折によって引き起こされた。 すなわち、社会の衰退と内部崩壊による「自殺」である。 さればローマ帝国はいかにして滅亡したのか。 巨大な富を集中し、繁栄を謳歌したローマ市民は、次第に欲望を肥大化させ、労働を忘れ、消費と娯楽に明け暮れるようになった。 繁栄が市民のコミュニティを崩壊させ、判断力と自己決定能力を欠いた「大衆社会化状況」を生んだ。 無産者である市民大衆は、市民権の名において為政者に救済と補償を要求するようになる。 それに迎合した政治家達は、配分可能な経済の枠を越え、市民に無料でパンとサーカスを際限なく与えた。 市民大衆が働かずして無償の「パンとサーカス」を「権利」として受け取れるようになると、やがてローマ社会の芯が腐り始め、没落が始まった。

 今の(1975年の)日本がそれとそっくりな状況である。 経済が肥大化するに連れて国民も政治家も、経営者も、すべからく狭い利己的な欲求の追求に走り、エゴの自制を忘れている。 国民は権利ばかり主張し、義務を軽んじている。 自らのことは自ら解決するという自律の精神と気概を欠いている。 国防外交においては他国の軍事力に依存し、生活には福祉や社会保障の要求を肥大化させている。 エリートたるべき者が精神の貴族主義を失い、大衆迎合に走っている。 政治家も学者も、産業人も労働運動のリーダー達も、誇りと責任を持ってものを言わず、行動しない。 都市化が社会の連帯を失わしめ、家族関係を崩壊させている。 他力本願で自己決定能力を欠いた日本は、ローマと同じような文明の衰退(自殺)への道を歩み始めている。」

 1975年と言えば東京オリンピックの10年後である。 高度経済成長はまだ道半ば。 その後世界第二の経済大国と言われるようになった絶頂期の20年近く前のことだ。 その時点ですでに今の日本の挫折と衰退を見事に言い当てている。 論文では「自殺イデオロギー」とも言うべき幾つかの兆候について述べている。 例えば高度情報化がもたらす国民の幼稚化、判断力の欠如である。 さらには戦後民主主義教育が普遍化させた悪しき平等主義、などなどである。 これらから生まれた「疑似民主主義は、放縦とエゴ、画一化と抑圧を通じ日本社会を内部から自壊させている」と結論づけている。 まさしく2012年の予言だ。

 安逸に溺れた国民は、忍耐と勤勉を忘れ、政府に際限なくパン(福祉)を要求する。 やれ生活保護だ、年金だ、セーフティネットだと。 それに迎合した民主党政府は、子供手当にとどまらず、一律7万円の基礎年金という究極のバラマキをやろうとしている。 財源の当てがないのに、税と社会保障の一体化などともっともらしいことを言っている。 ためにし役人に試算させたらとても消費税5%では足りず、17%というびっくり仰天の数字が出た。 慌てたドジョウ首相はそれを頬っかむりした。 かくして働かなくても月10数万円の生活保護が受け取れる上に、年金積み立てずとも全国民が7万円の基礎年金をもらえるようになる。 破滅へ向かうパンとサーカスの始まりだ。 普天間国外を声高に要求する国民は、自国の防衛がどうあるべきか考えもしない。 ただただ出て行けと言う。 それに代わる自主防衛の手だてを、国民も政治家も誰も考えない。 議論さえしない。 いい加減うんざりしたアメリカは、やがて普天間から出て行くだろう。 後には空っぽの裸の沖縄が残るだろう。 自律と自己決定能力を欠いた「日本国の自殺」の始まりである。

 この論文は「グループ1984年」と言う当時の保守派論客達の共同執筆によるものだという。 そもそもの目的は、日本共産党が当時の社会党と連携して左派政権を誕生させるために作った「民主連合政府綱領」に対する批判にあったという。 この綱領は今の民主党のマニフェストに当たるものだ。 今と違い、当時の社会党は自民党に対抗する大政党だったし、美濃部都知事をはじめ東京、京都、大阪など大都市が左翼系知事で固められていた。 70年安保醒めやらぬ雰囲気の中で、左派社会主義政権誕生はあながち夢物語ではなかったのだ。

 文春がこの論文を37年後の今になって再掲した動機は、朝日新聞の若宮啓文主筆が注目し、1月10日の朝刊一面に「「日本の自殺」を憂う」と言うコラムで取り上げたことだという。 若宮主筆と言えば保守の天敵、日本を代表するリベラル左派系大新聞の看板ライターである。 日頃から反保守/親革新、反自民/親民主の論陣を張ってきた人物だ。 かってのリベラル左翼や民主党の応援団長が、今になって自分がさんざん叩いてきた保守派論客の論文をヨイショする。 この男に信念というものはないのか。 何とも情けない話だが、このあたりも「日本の自殺」への一里塚と言えようか。   

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