【伝蔵荘日誌】

2011年12月6日: 六合村の記憶 U.H.  

   母方の祖母は、群馬県大胡(おおご:現在 前橋市)の生まれで、旧姓を勅使河原と言った。 祖母は師範学校を出た後、小学校の訓導(教員)をし、やがて新里村(にいさと:現在 桐生市)の竹内家に嫁いだ。 その祖母から娘時代に草津温泉に湯治に行った話を聞いた。大胡から草津まで5、60キロの道程であるが、馬の背に箱鞍というものを置き、股がないで、横に腰掛けるようにして馬子に引かれて行ったと聞かされた。 その道中がどのルートをとったのか定かではないが、おそらく渋川、中之条、暮坂峠、六合(くに)と辿ったのではなかろうか。

 自分は旧満州のハルピンで生まれた引き揚者で、日本国内に故郷を持たない身であった。 しかし母方の里が群馬であったこと、家内ともども北軽井沢や三原(現在 万座鹿沢)に中・高校時代の想い出があること、さらには嬬恋(つまごい)村の知人の山荘に度々寄寓させてもらったこと、などから、群馬県吾妻(あがつま)郡嬬恋村に山荘を持つこととなり、家族にとってそこが言わば第二の故郷となった。 浅間山麓から四方を巡る湯ノ丸山、鳥居峠、四阿山(あずまやさん)、横手山、白根山などの広大な高原風景を見渡すと、いわゆる日本的景観を飛び越えた開放感に浸れ、また都会の喧噪を全く忘れることが出来る。 合わせて、嬬恋村の隣接地である「草津温泉」のもたらす味わいや、「六合の里」が醸し出す懐かしさによって、心の底から癒される。 そうした感慨を持てることに感謝の気持ちを込め、「六合村の記憶」を辿ってみる。

 群馬県吾妻郡の西北端に位置する山里に、草津町と隣接して六合村(くにむら)があった。 「あった」というのは、あの「平成の大合併」によって、六合村は東隣の中之条町と合併したが、「中之条町六合」とはならず、「中之条町・大字名(例えば赤岩)」となってしまい、「六合」の名はそっくり埋没してしまったのである。

 そもそも六合村は、明治33年(1900年)に当時の草津村(現在の草津町)と分村して、六つの大字、すなわち「赤岩(あかいわ)」「日影(ひかげ)」「小雨(こさめ)」「生須(なます)」「太子(おおし)」「入山(いりやま)」を合わせて、「六合村」となった。 この名前は、古事記にある「天地四方を以て六合(くに)となす」にちなんで名付けられた奥ゆかしい村名であった。

 「六合村」は、まさに大いなる山里である。 当今騒がれている「やんばダム」の現場は、長野原町を流れる「吾妻川(あがつまがわ)」を堰き止めるダム計画であるが、その吾妻川の支流として「白砂川」が流れ込んでいる。 その白砂川は北東の白砂山から西へ向かって、大高山、赤石山、横手山、渋峠等の長野県との県境を形成する2千メートル級の山々から流れ下る数多の分流を集めて、六合村の広域を流れており、大変美しい渓谷をなしている。 つまるところ六合村は山と谷川が作るわずかばかりの田畑と、きわめて広大な山林のほか、取り立てたものがない僻村なのである。

   そのような僻村ではあるが、いや僻村なるが故に、明治、大正、昭和の激動の時代を越えて綿々と繋いできた懐かしい生活文化が今の世に息づいている大変貴重な村里でもある。 加えて、人の手で荒らされていない豊かな自然がそこここに見られ、その地に暮らす人々が素朴な感性を保ち続けていることもうれしい。 以下はそうした「旧六合村」の心温まるエピソードである。

1.赤岩地区
 長野原町から北に向かって、小さな峠を越えたところから旧六合村となり、右側に「赤岩」集落がある。 白砂川が作る河岸段丘にへばりつくように集落があり、わずかな田畑がある。 そうした環境のため、明治以降は現金収入に繋がる養蚕が盛んで、蚕室を形成するために木造三階建てのしっかりした構造の民家が今も多数残っている。 平成18年には赤岩地区が「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。 赤岩集落に「湯本家」という旧家がある。 この家の先祖は頼朝に敗れた木曽義仲勢に加わっていたようで、敗戦の後に西吾妻の地に潜伏して生き残った一派だといわれている。 その頼朝が、あるとき巻き狩りのために西吾妻を周遊した際に案内人として駆り出され、頼朝に草津温泉を紹介したという言い伝えが残っている。

 草津温泉の中心部にある「白旗の湯」という源泉は頼朝が発見したことになっているが、遠方からやってきた一団がいきなり温泉を発見できるわけもなく、案内人に紹介されたというところであろう。 言い伝えではこのときに頼朝から「湯本」の姓と、草津の地を賜ったことになっている。 その湯本家であるが、時代が下った江戸時代には、赤岩の地で代々に亘って医者稼業をしていた。 合わせて山野草や動物などを原料とした薬の製造にも精を出し、医薬兼業で産を成していたらしい。 裏山には無尽蔵ともいうべき山野草があるのだから、見分ける力さえあればいくらでも生産できたろう。 時は幕末、「安政の大獄」で獄に繋がれた蘭学者「高野長英」が江戸の大火で獄を逃げ出し赤岩の湯本家に匿われたことがあったといわれている。 長英は長崎でシーボルトに学んだ学者であるから、同じ医療分野に携わる知識人同士として湯本家の当主とも親交があったらしい。 長英が潜伏していた部屋や、裏山への逃げ道などが湯本家の土蔵作り三階建ての住宅内に保存されている。

2.小雨地区、「冬住みの里」
 草津温泉は、西の別府と並ぶ天下の名湯であるが、近年まで冬期は閉ざされていたことはあまり知られていない。 江戸時代、春から秋までは湯治客で賑わう草津も、11月になると客も途絶え、雪深い草津に住む意味はなかった。 家々は、むしろで囲い、畳や障子などは積み上げて空き家にして、雪解けの春までの期間は比較的暖かい谷あいの里、小雨集落で過ごした。 小雨に移る日は11月8日、草津へ戻る日は4月8日と決められていて、皆でそれを守っていたという。 標高約1300メートルの草津から約500メートルの標高差、約6キロの道のりを下ると、東南向き斜面の小雨集落に至る。 草津の人々は冬の間、小雨の里で、湯治客のための自炊用の薪を用意したり、保存食料や土産物などの準備をしつつ春の到来を待った。 やがて明治時代にはいると、村人はだんだんと冬の草津に残るようになり、近年に至っては道路交通網が整備され、徒歩か馬の背の旅から車社会へ移行し、通年型の一大観光地へと変遷をみたのである。 旧六合村役場の向かいの高台に、「大黒屋」という屋号を掲げた往時の冬住み屋敷が資料館として残っており、その頃の暮らしぶりを知ることが出来る。

3.入山地区、野反湖(のぞりこ)
 近世まで、お江戸や北関東方面から草津を訪れる湯治客が歩いた主な道は、中仙道の沓掛宿(現在の中軽井沢)から浅間山麓の六里ヶ原を北上して長野原に至るルート、あるいは前橋方面から渋川、中之条、暮坂峠を西行して小雨集落に至るルート、また高崎方面から榛名山の南麓を通り、大戸の関所から須賀尾峠、もしくは万騎峠経由で長野原、もしくは上州三原に至るルートなどであった。 「やんばダム」問題の計画地である吾妻川渓谷沿いは厳しい断崖の地形が続いて、江戸時代から明治・大正時代にかけて道らしい道はなかったようである。 今の国道145号線は、その後の土木技術発展の賜といえよう。

 旧六合村の他の五つの集落は、長野原町から草津に至る国道292号線の両側か、中之条町から暮坂峠を越えて西行する辺り、すなわち村の中南部に集中している。 それより北方の広大な地域は「入山(いりやま)」地区と呼ばれている。文字通り“山々の懐”に入っていく山里である。 湯の平温泉、応徳温泉の少し北で、草津温泉に向かって登っていく国道292号線と別れて、国道405号線が入山地区をさらに北上していくが、野反湖のところで自動車道は行き止まりとなっている。 さらに険しい山岳ルートを徒歩で北上すると、秘境「秋山郷」に至る。野反湖はダム湖ではあるが、周辺の2000メートル級の山々と調和して、実に秀麗な景観を作っており、高山植物の宝庫でもある。 標高1500メートルの湖には、北から冷たい風が吹き抜けてきて、5月の連休時に湖面が全面結氷していることも珍しくない。 しかしその後一気に春を迎え、ヤマザクラに続いて、シラネアオイ、レンゲツツジ、ノゾリキスゲ、コマクサ、マツムシソウ、リンドウなどの花々が次々に咲き競う。

4.道の駅 六合
 国道292号線が、国道405号線と別れて草津町に向かう地点の少し手前に、「道の駅 六合」がある。ここの道の駅は、こぢんまりとした地味な佇まいであるが、山里の珍しい食材や手作りの土産品などが置かれ、また「六合」の名称が今に残されている貴重な事例でもある。

 入山地区には、究極の山里ならではの珍しい生活文化や、農協偏向社会ではもう見られない貴重な食材などが今の世に残っている。 たとえば「入山キュウリ」が上げられるだろう。昨今の一般に流通しているキュウリは、太さや長さが均等で、棒のようにまっすぐな、同じ濃さのグリーンのものに限られている。 お味や臭いなどもみな同じようなものである。 ここに取り上げる「入山キュウリ」は、むっくり太く、少し色あせたような緑色で、この地域で綿々と作られてきたものであるが、一般の流通ルートには全く載らない代物である。 おそらく今作っている高齢のお百姓が耕作をやめたら、この世から消え去るであろう稀少品である。 皮が固いので、表皮を「ウリ坊」状に削いで食べるのだが、シャキシャキした食感が美味しく、サラダや漬け物にうってつけのキュウリである。 他にも、標高千メートルの高地で栽培される「黒マイタケ」とか、「花インゲン」、「えごま」など、六合村ならではのものが並んでいる。

 生活文化に纏わる土産品では、端布を撚って紐状にして、草履に編んだ「こんこん草履」、無垢の木をくり抜いて成形した急須や捏ね鉢など、ぬくもりが感じられる木工品などなど懐かしい品々に「道の駅 六合」でお目にかかれることが実にうれしい。

5.シラネアオイ、コマクサを育む六合中学校の生徒達
 野反湖に様々な高原の花が咲き競うことは前述したが、5月末から6月始めにかけて咲くシラネアオイ、そして夏に咲くコマクサの群落育成については、地元の人や六合中学校の生徒達による活動が大きな支えとなっている。 シラネアオイ、コマクサ共々に高原に咲く山野草であるが、開発の営みや心ない人による持ち帰りなどによって、自然の中ではやがて消えていく運命が迫っていた。 そうした中、六合村では何年も前から多くの人々が協力してシラネアオイやコマクサを植え付け保護する努力が続けられている。

 シラネアオイの場合で言えば、まず標高千五百メートルの急斜面の笹を根こそぎ刈り取る。笹は繁殖力がめっぽう強く、根は深く蔓延っていて、根こそぎ刈り取るには大きな労力を要する。 また予め、近傍の農家にシラネアオイの苗を育ててもらう。ここから六合中学校の生徒の出番である。生徒達は急斜面に展開して、シラネアオイの苗の植え付けに従事する。 こうした営みは代々の生徒に受け継がれ、十万本を越える株が根付き、優しい紫色の花が春の風にそよぐ様は壮観である。 コマクサも同様に、六合中学校の生徒の手によってガレ場に植え付けられ、大きな群落になっている。
  

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