【伝蔵荘日誌】

2011年11月2日: 「いい歳の取り方」とは GP生

 先日投函した六年五組クラス会案内の返事が半分近く戻ってきている。 近況欄の記載にはそれぞれの個性が良く現れている。 その中の女性からの一通を読んで考えさせられた。 「11月に白内障の手術をすること。要介護の義母の世話で忙しいこと。 案内を貰いながらいつも出席が出来ず、心苦しく思っていること。 色々お世話になったけれど、今後出席できる見通しが立たないので、案内送付は不要であること」などが丁寧に認められていた。

 先日、所用の為にTG君のお宅にお邪魔していた時、携帯に電話がかかってきた。 同級生Ka君の奥さんからで「主人が9月に入院をした。小腸が癒着をしているので開腹手術をしたが、手の施しようがなかった。 主人は水頭症の為20年以上苦しんできた。 私は料理が好きなので、主人に食べてもらうのが楽しみだった。 もう食べさせることも出来なくなった事が悲しい。」と最後は涙声になり、自分ももらい泣きをしたい心情になった。

 大分前のことだ。 横浜の中華街でのクラス会の時、友人のKo君と一緒に、車椅子のKa君を電車に乗せて出席してもらったことがあった。 近隣での設営のときは、勿論、車椅子で出席した。 家から外に出る機会のないKa君にとって、クラスメイトとの歓談は如何にも楽しげであった。 献身的で積極的な奥さんや子供さん達との家庭は円満で、奥さんとは何時会っても、Ka君に対する愛情が感じられた。

 何年か前の事だ。クラスの女子に出した案内の返信を、一か月近く経ってから受け取った事があった。 こちらが書いた宛先から既に転居していて、かなり離れた土地に移り住んでいた。 近況欄には「色々な事情により、逃げ回っています。 もう連絡しないで下さい。」と書かれていた。 60代後半の頃の事だ。 彼女に何があったかは判らない。 若い時なら挽回は可能だろうが、高齢になってでは、余程の僥倖がなければ苦しみからの脱却は難しいだろう。 内容から金銭がらみの臭いがした。

 Koさんは「主人と結婚して、49年目になる。 二人であちらこちらにサイクリングで出かけている。 来年の金婚式を楽しみに頑張る。」と近況欄に書いている。 仲の良いご夫婦とは聞いていたし、電話でご主人と話していても、端々に夫婦円満さを感じられた。 Koさんから「クラスの女の子の何人かは、未亡人になりたい症候群」だと聞いた。 夫の看病や介護に疲れ、未亡人になって解放されたいとの願望だそうだ。 半分は冗談にしても、何やら真実味が籠っている。 クラスの相当数の女の子が未亡人になって、溌剌として人生を楽しんでいる様に見えることも影響しているようだ。 彼女たちとて、自分と二人だけで話した時には、高齢になっての独り身の淋しさを「ポロット」漏らすことも有る。

 近況欄に書かれた数行の文章を見るだけでも、「いい歳の取り方」とは難しいものだと感じる。 Ka君の様に長年の不治の病気に苦しみながら、歳を重ねることは辛いことだが、ご夫婦のお互いを思いやる心の交流を見ると、「ご夫婦としていい年を重ねてこられた」の感もする。 Koさんご夫婦のように二人とも健康で円満な、絵に描いた様ないい年寄り夫婦は少ないようだ。

 歳を取っても、身体が健康であることだけで「いい歳を取った」とは誰も思わないだろう。 自分自身を考えても、加齢を重ねることで、知らず知らずの内に思考の柔軟性を損ねているのかもしれない。 最近、妻からよく注意される。 頭がガチガチだと。 家族以外の人はそこまで言わないので、どう感じているのかは判らない。

 今回のクラス会の場所の設定について批判の便りを貰った。 「何時も同じ場所、同じ料理屋。 東京都心にも良い場所があるのに。 欠席」とあった。 震災で延期になったクラス会再開に際し、亡き担任お好みの場所、お店、更に、第一回クラス会発祥の場所として選択した。 この想いは通じると思ったが、自分の思い込みであったのかもしれない。 考えてみれば、時間とお金をかけるのだから、新しい場所で、美味い物を食べたいと思うのは当然のことかもしれない。 もう少し柔軟な発想をすれば良かったと反省している。 所謂、ワンパターン的発想だったのだろう。 クラスメイト全員の想いを満足させられる設営は無理であるとしても、もう少し柔軟思考があっても良かったのではと思い直している。

 長年付き合ってきた友人や仲間たちとの、感情を含めた意思の疎通が少しずつ難しくなる傾向にはある。 社会人として現役時代はある意味共通の土台があった。 退職し、年齢を重ねると、それぞれの家族構成や家庭内の夫婦間や子供たちとの人間関係が、友人関係にも微妙に影を落とすことがある。 日常の物事に対する判断も、それぞれが生来持っていた人間性や、後天的経験で培ってきた価値観の違いが露わになることも多い。 長い付き合いの中でお互いを理解してきたつもりでも、加齢の進行による柔軟性の後退やエゴの増幅により、以前の相手とは異なる人間性を見出すことも有るだろう。 それはそれで、仕方のないこと。 良し悪しの問題ではないのだから。

 「いい歳」の価値判断は十人十色だ。 しかし、自身の心が広く、周囲に対する思いやり、思考の柔軟性のバランスが取れていて、自身の安寧だけでなく、家族や友人、仲間たちとの円満な交流に繋がる心があれば、「いい歳を取った」と思えるのだが。 難しいことだ。

 高齢者にとって、今後何十年もの時間が残されている訳ではない。 ただ漫然と生活していくだけでは寂し過ぎる。 更なる高齢化に向けて、心と脳の活性化は大事なことだと思う。 脳細胞の活性化は「いい歳を取ること」ことに繋がる必要条件であろう。 秋田のWaさんは、「視覚を失ったことにより、脳の働きの衰えを感じる。新しいことは、視覚無しではイメージが湧かず、直ぐに忘れてしまう。電話で昔の話をすることで、脳が活性化する感じだ。」と話していた。メールによる交歓は便利なものだが、心と脳細胞の活性化は会話に限るようだ。

 高齢者にとって、気楽に話せる交友関係の新たなる開発は難しいだろう。 だからこそ、かっての交友関係は大事にしたいものだ。 お互いいい歳を取りながら。 「夫婦仲良く、和気あいあい」はお互いの活性化と生きる意欲への良薬なのだ。 時には口に苦しだが。
  

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