【伝蔵荘日誌】

2011年10月22日: 六年五組クラス会再開 GP生

 現在、万年雑用担当委員として、クラス会の案内状を発送してホットしている所だ。 二十数年前に小学校六年五組のクラス会が始まって以来、毎年五月に開催してきた。 今年は調布市にある神代植物公園散策を計画していた。 けれど、大震災以降数ヶ月間、クラス会を開催する気分にもなれず、気力消沈のまま中断止む無きに至った。

 自分達は昭和21年4月の入学、27年3月の卒業だから、随分と古い付き合いになる。 卒業時、五組の生徒は男子28名、女子27名、合計55名であった。 クラス数は5組。 自分の孫も同じ小学校に通学しているが、1クラス 30名余の2クラスだから、隔世の感がある。 それでもクラス運営に担任教師は苦労しているそうだ。 当時を思い出しても、暴れん坊はいたが、クラスは落ち着いていた。 学級崩壊なぞ薬にしたくても何処にもなかった。 当時の先生が優秀であったのか、それとも生徒の資質が優れていたのか。 親も教師も戦後民主主義なる毒素に侵されていないし、社会の中で学校教師が尊敬の念を以て見られていた。 ある意味では良き時代だった。

 孫達の話を聞いても、興味本位で時々顔を出す孫の教室での授業参観の経験からも、クラスの主導権を握っているのは、間違いなく女生徒だ。 運動会の応援団の団長が毎年女の子であるのを見ても分かる。 騎馬戦の大将が女の子だ。 自分達の頃は、クラスの委員長は男子、副委員長は女子と端から決まっていたし、誰もそれを不審に思わなかった。クラスの中で男女間で親しく話をすることもなかったし、グループはそれぞれ別であった。 運動会でも男女間で手を繋ぎ遊戯をすることもなかった。 それでも、お互いに関心があった事は間違いない。

 現在25名に案内状を出している。 既に10名近くが他界しているし、所在不明者も多い中、半数以上が出席可能者だから、優秀の部類だろう。 最近では出席するのは男女ほぼ半数ずつで、合計12〜15名程度だ。最初の頃のクラス会は、オジサンとオバサンの集会であったが、年月の経過と共に、お爺さんとお婆さんの茶飲み会に近くなった感がある。 昔、男女間を意識しすぎて、口も碌にきかなかったのに、現在はお互いに饒舌である。

 五組の男子で現在埼玉県在住のTa君が居る。 中高校が同じなので、その同窓会で会った時「五組のクラス会に出席するよう」話をした。 彼から「女の子のMaさんは出席するのか」と聞かれた。 「Maさんは女医で忙しいので、顔を出したことがない」と答えた。 Maさんの居ないクラス会は、Ta君にとって魅力がないようで、結局Ta君もMaさんも未だに欠席を続けている。 今回も恐らく欠席だろう。

 女子のKoさんは当時のクラス副委員長。 現在は五組クラス会の実行委員長をしている。 大変積極的な女性で、二十数年前にクラス会発足を試み、Ky君を指揮して苦労して名簿作りを行った。 これがクラス会継続の土台となっている。 自分は毎年3月になるとクラス会の具体的計画を立てている。 立案が遅れると「如何なっているの。いつごろ出来るの。」と電話がかかってくる。 彼女には悪意とか、悪気とかは全くない。 カラカラに明るい女性なので、腹は全く立たない。 本職は声楽家。 長年の夢がかなって、現在、大学で声楽の勉強をしている。 前向きで積極的な姿勢は古希を過ぎても健在だ。 13歳年上の心優しいご主人のバックアップが素晴らしい。 孫たちのクラスと同じで、我々のクラス会も女性上位になってしまった。

 実行副委員長のTs君は昔の遊び仲間の一人だ。 温厚な人柄で人望も厚い。 現在東京の西部の都市で材木屋を営んでいる。 彼の実家も材木屋で、兄が家業を継いでいる。 この兄の息子が自分の息子と同級で、その子供同士も友達の関係だ。 一つ場所に長く暮らすと、人と人との関係が重層的に繋がって行くことになる。 都市部では薄れがちになる地域での絆は大切だと思っている。

 物心ついた時からの幼馴染に八百屋のYoちゃんが居る。 五組のクラスメートだ。 子供の頃は駅前通りの人道や近所の原っぱ、そして自分の家の庭が遊び場で、何時も暗くなるまで遊んでいた。 そのYoちゃんが何時の頃からか、クラス会に来なくなってしまった。 長年勤めた繊維卸問屋の役員を辞めて何年か経った頃だ。 色々の情報を総合すると、奥方のストップによるものらしい。 奥方の「やきもち」が原因との説が有力だ。俄かに、信じられない話だが、他にも、奥方が毎年「クラス会案内状」を破棄したため、出席できないTk君が居るから、まんざら嘘ではなさそうだ。爺さん、婆さんの会合に「やきもち」とは。 幾つになっても、女性の心は理解しがたいものだ。

 亡くなった何人かのクラスメイトの奥様より、手紙を頂戴したことがあった。 クラスメイトの死去を知らずに案内状を発送した時の返信だ。 手紙の内容は永年に亘る交誼に対する感謝共に、相当枚数の80円切手が同封されている事が多かった。 クラス会終了後に出席者の集合写真を添付して、お礼状を書くことにしている。 写真には「仏前に添えて欲しい」との想いを込めて。 仲間が一人一人あの世に旅立つことは悲しいことだが、現世を生きる人にとって、避けることが出来ない現実だ。 この年になれば、早い遅いの違いだけだと割り切るしかない。

 最初にクラス会に出席した時、ほとんどの人の顔と名前が一致しなかった。 別れたのは12歳、再開時は50歳近く、瞬時に判別できなくて当たり前だ。 しかし、会話を続けると、中年男やおばさん顔の中から子供のころの特徴が浮かび出てくる。 同時に、自分の中に仕舞われていた記憶が少しずつ滲み出てくる。 一時間もすると全くの違和感もなく、子供のころの感覚をも交えた、懐かしさを覚えてくるものだ。

 毎年一回の会合に過ぎないクラス会でも、回を重ねるにつれて、出席者間で独特の連帯感が生まれてくる。 今では女性から、かなり際どい家庭内や人間関係の悩みが赤裸々に語られるまでになっている。 クラス会では子供の頃の心に戻り、世の中の社会的レッテルや立場を超越した年寄りの会合故に、話すことで心が癒されるのかもしれない。

 出席者の男性の殆んどは、連れ合いが健在だが、女性群の半数近くは夫と死別している。 其の他、多くの女性が夫を介護している。 要介護の夫を抱えた女性は愚痴が多くなり、単身女性は明るく前向きだ。 独り身になった「女は強し」は際立っている。

 このクラス会が今後何年継続するかは分からない。 実行委員長のKoさんの叱咤の元、雑用担当委員としてクラス会の運営を考える事は、自分の役割と思っている。 遥か昔、小学五年生と六年生の二年間を共にした仲間が、古希を過ぎても一堂に会し歓談できる事は、望外の喜びだから。 担任のGo先生は七回目クラス会の二週間前に亡くなられた。 葬儀の席で先生の奥様よりメモを頂いた。 先生の字で「クラス会に出席できず残念。クラス会万歳」と書かれていた。 享年86歳。 二次会のカラオケにも気さくに付き合ってくれた先生だった。 合掌。

 かっての小学校時代は、戦後の貧しい世の中であった。 物には恵まれず、毎日の食事も満足に摂れないことも有った。 しかし、良き師、良き友に恵まれた幸せを、五組クラス会の案内状を投函し終えて、改めて感じている。
  

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