【伝蔵荘日誌】

2011年8月26日: あの世からの伝言 GP生

 妻が20年来、お世話になっている美容師さんと久しぶりに話をした。 彼女は新宿区のさる街で小さな美容院を営んでいるシングルマザーで、高校生の娘さんと二人で暮らしている。 美容師は彼女一人。 相棒は長年の友人でエステ担当の女性だけだ。 決して奇麗なお店ではないけれど、独特の温かい人肌を感じさせる雰囲気が漂っている。 妻のみでなく、二人の息子や息子の家族も髪のカットをお願いしている。 長年家族ぐるみの付き合いが続いてきた。

 何時もは妻を車で店に送り、時間を見計らって迎えに行く。 アッシ―君の役割だ。 今回も迎えに行ったら作業手順が狂った為、仕事が終了していなかった。 出直す訳にもいかないので、暫くお店で待たせてもらった。 雑談をしていたら「お父さん、お盆に来たわよ」と美容師さんに言われた。

 彼女は若い時から霊感が強く、色々な物が見えたり、聞こえたりして辛い思いをしたらしい。 現在は、上手にコントロールしているそうだ。 小さい時から苦労してきたと聞いているが、温かく明るい人柄と美容技術で多くの人に慕われている。 多くの若いお客さん達にとって、人生・悩み事の相談相手でもある。アドバイスが適切で、的を射ていると評判が良い。 彼女の霊能力も一役買っている様だ。

 彼女と自分の父は生前、接点は全くない。 父が亡くなったのは18年も前になる。 亡くなって何年か過ぎた頃、彼女から「お父さんが来たわよ」と言われた。 その後「お稲荷さんの周囲の雑草が延びている。草取りをする様に息子に伝えてくれ」との伝言があった。

 確か父が言うように、自分は稲荷社の周囲の手入れは怠っていた。 家には、仏壇の他に子供の頃「ダイジンゴサマ」と言っていた「大神宮社」や「竈の神様」が昔から祀られている。 父は生前これら4つの神仏を大事にしていた。 いつも奇麗に掃除をしていたし、仏花や榊、水、お茶を絶やしたことはなかった。 自分もこれらの祀事を父から受け継いだのだが、父ほどの几帳面さは望むべくもなく、手抜きが多かった。 「仏壇が傷だらけだ、何とかしてほしい」との伝言には、「傷をつけたのは母親なのに」と思いつつ、時間をかけて漆塗で修理した。

 「お稲荷さんの周囲の草を取れ」とは、いかにも父らしい発想で、間違いなく父の伝言であると信じた。 稲荷社の前に植木好きの祖父が植えた大きなモチの木がある。 二、三年に一度枝を落とさないと、無様な形となる。 或る時、お父さんから「モチの木の枝を落すよう、息子に伝えて欲しい」と頼まれたと、美容師さんから言われた。「よし、明日切ろう」と心に決め、翌日朝一番に彼女にその旨電話したら、美容師さんは「お父さんが朝六時頃、私の所に来て、息子が今日切ってくれるそうた。有難う」と礼を言われたという。 あの世では人の心の中まで見えるようだ。 考えてみれば、守護の対象者の心が判らずして、守護霊は務まらないだろう。

 自分が生まれた時に、父は支那事変で大陸に出征していた。 大東亜戦争時には千島列島の択捉島からシベリアに抑留される羽目となった。 テレビでシベリア戦没者の慰霊祭を放送していたが、生存者の高齢化が著しいようだ。 57万人の軍人、軍属、民間人がシベリアの地で強制労働に就かされ、五万五千人が彼の地で病没している。

 父は昭和24年11月、自分が小学校四年生の時に復員してきた。 身体が丈夫であったので生き永らえたようだ。 母は毎晩放送されるNHKの「復員者便り」を聞いていた。 その中で父の名前を聞いた時泣き崩れた母の姿は忘れられない。 シベリアでの四年間は口にするこを憚るくらい辛い経験だったのだろう。 生前の父からシベリアでの事を聞いた記憶は一つしかないない。 年に一度、シベリアから父の手紙が届いた。 作業ノルマを達成すれば、家族に手紙を出させるという。 旧ソ連が抑留者にぶら下げた人参である。 現在手元に四通の手紙が残っている。 父から聞いたのは、手紙を出したい思いで、どれだけ頑張ったかと言う話だけだ。 それ以外の全てを、自分の胸に仕舞ったまま、父はあの世に旅立った。

 昭和二十年代前半は日本全体が貧しく、食べ物にも事欠く時代だった。 自宅の庭はもとより、少し離れた200坪ほどの畑では、陸稲、サツマ芋、ジャガイモ、インゲン、トマト等々色々な作物を作った。 日曜は家族総出での畑仕事が日課であった。 小学生の自分も大きな鍬で畝造りをしたことを覚えている。 あの時代は、何処の家庭でも生きるために家族は総力戦であった。 親子関係、兄弟関係も今では考えられないほど密であった。 家族が協力しなければ、生きられない時代だった。 高校卒業後は大学が仙台であり、就職後も社宅生活が永かった。 父との接触も、年に数えるほどしかない状態が長く続いた。

 二世帯住宅で親との生活が始まった時には、父は六十台の半ばを過ぎていた。 父が七十代の初めに腎臓を患い、透析をせざるを得なくなってからの六年間、透析病院までの車中での二人だけの会話は、お互いの本心を通わすのに十分の時間であった。 父は八十歳に二ヶ月を残して心不全でこの世を去った。 週三回の人工透析は、高齢者の心臓に多大な負担をかける。

 父の臨終はこの目に焼き付いている。 人が生から死へと移る瞬間、肉体に表れる変化は荘厳なものだった。 生前の父の生き方を想えば、父の魂は迷うことなく天上界へまっしぐらであったと思う。 例え、魂が抜けたとはいえ、あれだけ穏やかな死に顔を見れば間違いはない。 現世に執着を持った、死にたくない思いを凄まじい形相に残した顔や、この世での悩みをそのまま顔に刻んだ姿を葬儀の際に沢山見てきたからだ。

 美容師さんに、父が何か言ってなかったか聞いたら、「あなたの体の事を心配していた」との事であった。 父はあの世にいても、息子の健康を気遣っていてくれる。 有難いことだと思う。 普通、あの世にいる親の意思や気持ちを、現世の子等が知る術はない。 しかし、あの世では現世の人の関係はすべてお見通しだから、妻や息子たち家族とお付き合いがあり、霊能力を有する美容師さんの存在は、父には直ぐに分かったのだろう。 父は自分の意思を伝える窓口として美容師さんと懇意になった様だ。

 古希を過ぎて尚、亡き父の個性あふれる伝言を受け取ることが出来るのは幸せなことだ。 「お父さんは定期的に子供たちのところを廻っているから心配しないように」とは、「自分の事は心配ないから、姉や弟の心配をしてくれと父に伝えてほしい」と美容師さんに頼んだ時の答えだ。 美容師さんは母の事は多く語らない。 母は自らの意思で動ける立場ではないようだ。 息子として心配はしていても、こればかりは如何することも出来ない。

 人は現世での生き方で、あの世での魂が定住する場所が決まると言われている。 あの世は魂のレベルによって住む場所が異なる精緻な階層社会の様にも思える。 この世だけが人生と考え、好き勝手に生き、自己保全や我欲にまみれて生活すれば、死後の行先は厳しいものになるのだろう。 この世での苦しみから逃れるために、自ら命を絶てば、それこそ地獄の苦しみが待っている。 年間三万人を超す自殺者の行く末はどうなるのだろう。

 親子関係は単なる、DNAによる肉体遺伝だけでなく、前世でも何らかの縁を持つ関係であると言われている。 母親が幼子を餓死させたり、虐待の末死亡させたりするニュースが絶えない。 最近では、男親が妻と息子を殺して、一斗缶に詰めて捨てるなとと言う、想像を絶する事件すら起こっている。 末世と言っても過言ではない世相だ。 親子の関係が本来どの様な意味を持つかが分からなくなっているから、かくも残酷なことを人は行うのだろう。 行く末に絶望しての親子心中は昔からあった。 けれど、親が欲望を満たしたり、安易で楽な生活をしたい為だけで、わが子に手をかけるとは。 現代病と言えるほどの荒んだ心の持ち主の所業が多くなった。悲しいことだ。

 自分が育ってきた時代は、現在の様に豊かで、物が溢れた時代ではなかった。 けれど、貧しい中にも心豊かな家族関係があった。 だからこそ、今の自分がある。 物質だけの豊かさは、本当に人の心を幸せにしないようだ。 家族を中心とした豊かな人間関係を子供の頃に体験できるか否かが、人が成長した行く上で、大きな意味を持つようだ。 その意味で、亡き両親に感謝してもしきれない。父に至っては、未だ自分を見守ってくれている。

 自分が死後の世界で、父のような立場になれるか否かは分からない。残された自分の人生で、あの世の父にあまり心配かけないように心掛けなければならないと思っている。 それにしても、親とは有り難いものだ。改めて感謝している。

  

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