【伝蔵荘日誌】

2011年7月30日: 高齢の親と子供の関わり GP生

 先日、知人の30代の女性が東京の産院で女の子を出産した。初産であった。分娩室には夫と女性の母親が陣痛から後産の処理まで立ち会った。 午前1時過ぎの出産であるから、初老の母親は一睡もしない徹夜であった。 後日、母親から自分が出産したかのような錯覚を覚えたとの話を聞いた。誠に、母親と娘は一心同体に近いと感心した。

 入院先にお祝いに行った時、夫と娘さんの母親が来ていた。 出産後の娘さんの ケアーを母親が懸命にする姿を見ていると、血の繋がりが無い夫はその中に入れず、うろうろしている様に見えた。 夫は夫婦の愛情の結晶たる我が子の出産を見届け、産後、疲労状態にある妻を労ってこそ、夫婦の絆か深まるはずだ。母親が新しい親子関係の始まりを妨げている様にも思える。 娘さんが、無意識に気心の知れた母親に甘える姿を見ると、あまりにも濃密な親子関係に不安を覚えた。 考えてみると、全ての母娘関係がこの親子の様に濃密であるはずがない。

 妻は2人の子供を宮城県にある妻の実家近くの産院で出産した。 自分は長崎県の離島での鉱山勤務であるため、どちらの出産にも立ち会っていない。 出産時には親族の見守りもなく、独りで頑張った様だ。 可哀そうに事をしたと後悔している。出産後も看護師から「お父さんは来ないのですか」と聞かれるのは、妻にとって辛かったようだ。 「母子家庭と同じだ」と、今でも嫌味を言われるけれど、返す言葉もない。知人の娘さんは退院後は、娘さんの母親と夫の母親がそれぞれ地方から交互に上京して、1ヶ月間面倒を見るそうだ。 その後、娘さんの実家で、しばらく過ごす予定と聞いている。 夫は一人単身の東京暮らしだ。

 出産した女性が、乳飲み子の育児に不安があり、自身も心身とも辛いから親元に頼るのだろう。 子育ては夫婦揃って苦労を共有することで、夫婦の繋がりが強まるものだ。 自覚と覚悟が足りない若いカップルは、自分たちの成長の場を逃してしまうことになる。自分も仕事の為とはいえ、出産直後からの育児の共同作業が出来なかったことを、今でも悔いている。この親娘の様な濃密過ぎる関係は、親が老齢になり、自立的生活が困難になって来た時、如何なる関わり合いを示す事になるのだろうか。

 周辺を見ても、高齢の親に対する子供たちの関わり方は千差万別だ。 家庭の数だけの関わり方があるのだろう。戦前の家族意識が色濃く残っている時代はともかく、現在では自立出来なくなった親を、子供が責任を持って面倒を見ることは少なくなった様に思える。 親も、子供や嫁に面倒を見てもらう煩わしさを避ける傾向もあるようだ。 だから、親は子供よりお金だとの思いに駆られる。かくして、介護施設は次々に出来るし、介護保険料の上昇も続くことになる。面倒を見る、見られるは別にして、年老いた親にとって子供たち夫婦や孫たちとの語らいや会食は心弾む時間となろう。 自分でも経験しているから良く分かる。

 高齢の親にとって子供たちが頼もしい存在だけでなく、心配の種になることは多い。 母親の年金に寄生して生活している息子の話は、よくニュースの種になる。就職出来ないのか、働く気がないのかは知らぬが、親の寄生虫になっている子供は多いようだ。 死んだ親がミイラとなっても、年金を詐取していた息子がいた。親は死んでも子供の面倒を見ていたことになる。 悲しい話だ。親が子供に面倒を見てもらうどころの話ではない。 然るべき教育を子供に受けさせるのは親の責任だが、それから先は子供の責任になる。 単に学識だけでなく、子供が独りで生きていく意欲を育ませるのも親の責任だ。 親がパラサイト息子、娘に苦しむ姿は、きちんと育てられなかった子供たちが、親へ復讐している様にも見える。高齢になって、子育ての失敗を嘆きたくないものだ。

 親が経済を握り、肉体的にも頭脳的にも健康である限り、今までの流れもあって、家庭内のガバナビリティは親の方が大きく、いわば、子供が口を挿む余地は無いのが普通だ。しかし、子供が親の面倒を見なければならない時が、突然来る場合の方が多い。人生に想定外の事件は付きものだ。

 自分の父は70歳前半に駅のホームで転び、大腿骨の付け根を骨折した。  後日、腎臓病が悪化し、以来6年間、週3回の人工透析を続けることになった。職人上りで、頑固で融通の利かない父であったが、透析以来、親子の意思の疎通は以前より滑らかになった。手術での入院時に、書類の保護者欄に子たる自分の名前を書いた時、家庭内での立場の転換が始まったのだと自覚をした。

 高齢になって子供たちと疎遠な関係にある人達も多いようだ。 子供が居ても結婚しない、結婚しても子供を出産しない人たちも多い。だから、昔からの友人と話しても、十分確かめない限り、子供や孫の話は出来ない。 近隣の色々な事例を見ていると、夫婦仲が良く、夫婦のコミュニケーションが十分な家庭では、親子関係は両親が歳をとってからも円満のようだ。将来、自分の両親の様な家庭を持ちたいと思わせる、親の在り方を見て育った子供は結婚に抵抗はないのだろう。 親子の絆も強いから、老齢の親との関わり方も自然なものとなるようだ。高齢の親にとっても、自分たちの生きてきた結果の良し悪しを、身を以て受け止めることになる。

 高齢の親にとって、子供たちとの関係が「疎」と「密」どちらが良いかと問われれば、間違いなく「密」だ。 「密」であることにより、新たな悩みが発生しても、親子の間に常に接触があり、何時でも日常的会話が成立していれば、問題は何時かは解決出来る。親であれ子であれ、人が生きていく上で生じる悩みを無くすことは出来ないけれど、解決のできない悩みは極めて少ないはずだ。親子間が疎であれば、直接的には問題は生ぜず、生きていく上で直接的な悩みが生じることは少ない。 楽と言えば、楽だ。

 けれど、子供と疎遠であるが故に、近い将来、親が自律的生活を営めなくなるであろう時の不安は間違いなく生ずる。 本質的には、本来密でなければならない現世での親子関係が、疎であること自体が問題となる。 親子の関係は生前、天上界で約束された関係であるからだ。いかなる理由と原因があったにしろ、現世で親子の人間関係が正常に維持できないことは、生前の約束に対する違反となる。 現世でこれを全う出来ない結果、男親も女親も死後に厳しい反省をさせられ事になろう。 親子の接触が希薄で会話が少なければ、この世での正しい親子関係に修正することが出来ないからだ。

 子供達が成長して、それぞれの家庭を持ち、新しい人生を歩む時、親の価値観と合わないことは当然多い。 人それぞれ、違う魂を持っているし、子供の魂は親の遺伝結果ではない。 ましてや、連れ合いと言う、別の魂を伴って新しい家庭を形成し、営んでいるのだから当然のことだ昔、自分たちが結婚した時、両親は「息子は、嫁は何を考えているのだ」の想いであったと想う。 現在、自分が息子たち夫婦に対して思うと同じ様うに。連れ合いを含めた、親子間の調和は言うは易く行うは難しの部類だ。何らかの事情で、親が子供たちを頼らなければならない事態が生じた時、親は子育ての結果を問われることになるし、子供は何時か来るであろう、自分たちの老後を見据えた覚悟が試されることかになる。

 自分の子供達は、両親が親の世話をする苦労を見ている。 彼らもまた、自分の老いた親の世話をする姿を、彼らの子供たちにに見せることは大事なことだ。息子達のとっても、いつか来る彼らの老後の人生が、現在以降の親との関わり合いに、大きく影響される事を知って欲しいと願っている。

 老いた親の面倒を見ることは、現世での人の大きな役割の一つだ。誕生する前に天上界で親子の約束をしているのだから、親は親としての役割を果し、子は子としての責任を果すことは、それぞれにとって、定められた責務だと思う。 現世では、親との関わり合いの中で、遺産相続など言う生臭い問題が常に介在する。 親をそっち除けにして、醜い財産争いに血眼になる子供達も多いようだ。 人は人生の目的が判らなくなっているから、形あるものを求めることになる。 どんな財産より、親子の本来の関係を全うすることの方が、どれ程価値があるか知れない。

 後を受け持つ息子たち夫婦には、親の面倒のみならず、ご先祖から受け継いだ墓と仏壇を継承、維持する責任がある。 親から子へ、子から孫へと、DNAのみならず、家庭の歴史と文化を次の世代へと継承していくことは、大切なことだと思っている。

 自分達が息子たち夫婦に、バトンを渡す時は遠からず必ず来る筈だ。自分達夫婦が為してきた子育ての良否が分かる時が近づいて来つつある。 自分はその時を如何なる状態で迎えるかは、今は想像が出来ない。けれど、自分の人生を悔いなく、精一杯生きて、次の世代に気持ち良く全てを託したいもだ。
  

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