2011年7月23日: 日常の動的平衡とは GP生 ![]() 人の体は細胞レベルでの破壊と創造を繰り返している。 消化管の表面細胞の新陳代謝は日替わりだし、赤血球、白血球も古いものは壊され、新しい細胞に入れ替わる。 骨にしても数年で新骨に入れ替わっている。これ等の新陳代謝を人は意識することは少ない。 新陳代謝の材料たるタンパク質やビタミン等の栄養成分が日々供給されていれば、人体的不都合は生じないからだ。 栄養不足や、栄養の偏りは、生活習慣病の遠因としてしばしば話題となる。 人体は一時として、何も変わらない静的状態ではありえず、常に、破壊と創造の動的平衡の中で生命が保たれている。 日常での出来事の殆んどは予測可能の事だが、突然の予想外の事件に戸惑うことも多い。 事の大小は別にして、何事もなく過ぎる日は数える程だ。 起こったことへの対応を考え、対処しなければならない中で、日常を過ごすことなる。人は自らも生きながら、人間関係や諸々の出来事の中でバランスを取りながら生活している。 いわば、人体と同じような動的平衡を保ちながら生活していると言える。 ![]() Sa君の様な隠遁生活では、他とのかかわりを自分のコントロール下に置くことが出来る。 自らの意思で秋田まで車を走らせることも出来るし、何日も山小屋で一人静かに暮らすことも可能だ。 但し、他県で暮らす家族の平穏な生活が保たれているという前提は必要であろう。 けれど距離と時間が離れていれば、少々の不都合事は耳に入りにくい。傍からは、気ままに一人で生きている様に見えても、人が生きてきた結果生ずる環境からは、完全に逃げることは出来ないと思う。 自身の生活に及ぼす影響の濃淡の違いがあるだけなのかもしれない。 通常の家庭の様に妻子が手の届くところに住み、仕事の関係で諸々の人達と関わり合わざるを得ないと、常に振動の大きな動的平衡を保つ努力を強いられる。高齢者の家庭内では、夫婦間の動的平衡を保つ努力は最優先事項でもある。もっとも、どちらかに先立たれたとすれば、別の話となろう。 ![]() また、近隣の自転車店の80代のご主人は自分家の前で車に引かれて即死。 40代独身の息子さんは翌年ガンで死去。 残された娘さんが車椅子の母親を 一人で面倒を見ている。 家族崩壊である。人体では動的バランスが大きく崩れた時に病の発症となり、更に、病が進行すれば生命は危機に曝される。 生活的平衡の大きな崩れは、家族崩壊や家庭破壊として現れる。恐ろしいことだ。 夫婦、子供、孫達が健在である我が家でも、人が生きていく限り生ずる悩み事や心配事は後を絶たない。 けれど、家族の日常的努力によって動的平衡に保たれているのであれば、生じる悩みや苦しみが存在すること自体、健全な事なのかもしれない。歳をとってからの人生の負荷は、確かに辛いものだ。しかし、人はそれぞれ生命を保ちながら、お互いの関わり合いの中で生きている限り、静的な安定はあるはずがない。 もし、あまりにも孤独で、刺激のない生活の連続であったとしたら、人は活力を失い寿命を縮めることになろう。 都会の独居老人の死や、被災地における仮設住宅での老人の孤独死がそれを証明している。高齢にも関わらず、隠遁生活を楽しめる精神と環境を有するSa君は、生きていくための刺激と活力をどこで得ているのだろうか。 今度会った時に聞いてみたい。 ![]() 高齢者にとって、日常の喧騒をバランスを持って処理するには、肉体が健全であり、心に豊かさを保持してることが必要だ。肉体の健康は栄養、運動、睡眠、総じて生活習慣のバランスの中で保つことが出来る。 しかし、心の豊かさを持つこと、更に保ち続けることは並大抵のことではない。 昔、中高生時代に毎朝、生徒全員が苑長先生の下に唱和した「心力歌」の一節に「尊からずや我がこの世、楽しからずや我がこの世。楽しきを楽しと知らず、尊きを尊しと見ず。内なる宝をよそにして、人は形ある宝を求む。求るところいよいよ多く、失うところますます繁し。巳づからなえる迷いの縄に、身を繋ぎまた心を繋ぐ。心虚しくば錦衣を着るも、錦衣は身を飾るに足らず。権勢はただ悩みを増し、富貴はただ、煩いをなす。」がある。心の豊かさは、人が社会生活を営む上に必要とされる、金銭、物質、虚栄、肩書等への欲求を脱ぎ去った先にあるようだ。理屈では分かっていても、生活の中で実行するのは大変なことだ。 ![]() 日常生活の動的平衡を保つ努力は、間違いなく生きている証であり、現世での人生目的を達するための手段であると思っている。 現在の生活環境は自分が生きてきた結果であるから、他との比較で良し悪しを判断することは無意味であろう。 諸々の現象に正面から意欲を持って取り組みながら、日々の生活を送れることは幸せな事なのだろう。但し、手に負いかねる様な想定外の出来事だけは、起こらないことを願っている。 |