【伝蔵荘日誌】

2011年7月6日: 対州の忘れ得ぬ人々 GP生

 先日、かって勤めていた会社の鉱山親睦会があった。 今はなき国内外の鉱山で働いた経験のあるOBで構成されている。 出席者は61歳から88歳、上は鉱業所所長から、下は平係員から当時の女子社員まで約50名だった。 お互い歳をとったことを嘆き、若かりし頃の仕事の話や出席できなかった人たちの話に花が咲いた。 欠席者のかなりの人達が体調不良を理由にしていた。 毎年、何人かの先輩たちが不帰の人になっている。

 自分が赴任したのは国内鉱山で最大級の鉛亜鉛鉱山であった対州鉱山である。 対馬の下島にある。 対州鉱山の歴史は古く、おおよそ1300年以上昔に遡る。 当時の対州銀山から朝廷に献上された銀が、日本初であることが知られている。 蒙古襲来の時に国主宗助国以下80数騎が蒙古の軍勢に立ち向かい、全騎討ち死した場所は、鉱山より西へ2Kmの小茂田浜である。 この海岸に立ち西を見ると、60数キロ先の朝鮮半島の山々が薄っすらと見える。 昨今、半島からの観光客が島を賑わし、何処の国の島かわからないと嘆かれている。 江戸時代以前から、対馬は半島の影響を色濃く受けてきた島だ。 当時、島内でハットするような美人を見かけたが、半島の影響なのかもしれない。

 自分が就職した当時は鉱山の最盛期で、所長以下、下請け作業員を含めて1000人以上が働いていた。 沢山の社宅群で生活する家族を含めると数千人規模の一大集落を形成していることになる。 周辺の地元部落の住人もほとんどが鉱山に関係して生計を立てていた。 衣食住の殆んどと電気、水道は全て会社が供給していた。 本土との交通手段は、博多―-厳原、下関―-比多勝の船便がそれぞれ一日一往復で航空路は当時はなかった。 人との関係は職場のみならず、社宅内での日常生活まで巻き込んでの濃密なもので、閉鎖社会独特の人間関係を醸し出していた。 結婚後に連れ合いは、社宅内の裏職制に否応なしにまきこまれ、日常生活にも神経を使うことになる。 ただ、慣れてしまえば、ぬるま湯的安定した生活だったと言えるかもしれない。

 鉱山では9年間生活をした。結婚生活もここがスタートの場所であり、当時妻は慣れない生活環境の中での人間関係に苦労したようだ。 妻にとっては、苦労の方が印象深い様だが、自分にとっては、社会人としての一歩を踏み出した場所であり、自ら望んで飛び込んだ仕事であるだけに、忘れえぬ人達は多い。

 選鉱課のSa主任は見習職時代の指導教官で、選鉱技術の指導を徹底的に受けた。 選鉱とは掘り出された鉱石を粉砕し、物理、化学的方法で、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、硫化鉄鉱等の鉱種に分離する技術で、分離された精鉱が精錬原料となる。処理工程のデーターを毎日解析してレポートにしてSa主任に提出する。 レポートは主任により真っ赤に朱を入れられて、書き直しすることになる。 Sa主任の印鑑を貰っても、次なる難関が待っていた。 Mi係長だ。 「なぜこのような考えになるのか」と真っ赤に訂正されて戻される。Sa主任に事情を話し係長の考え方で書き直して、一日が終わる。 この繰り返しが、10か月続いた。 主任と係長の技術的発想が違うので、新人の自分は振り回されることになる。 お蔭で技術的考え方は、徹底的に鍛えられた。今に繋がる財産だと思っている。実習レポートはその後分厚い印刷物となり、対州鉱山選鉱課のハンドブックとして利用された。 自分の手元にもその一冊が残っている。 若かりし頃の記念碑と言える。 Mi係長とはその後、本社で廃水処理事業を立ち上げた。 係長は会社退職後、大学の教授となり、70歳を過ぎてから社会人学級で教えた。 晩年は中学生に工作の楽しさを教え、2年前に亡くなられた。 葬儀でのお別れで、満ち足りた表情の素晴らしい死に顔は忘れられない。

 採鉱課のMa係長には公私ともに大変お世話になった。 入社一年目は選鉱課で過ごしたが、縁あって翌年、採鉱課に配属になった。 その時の直属の上司がMa係長であった。 一年間の係員実習の後、40人の部下を持つ坑場主任を拝命した。 この係は鉱山最大の出鉱量と品位を誇り、文字通り対州鉱山の大黒柱で、作業員は400名を超えていた。 昼夜二交代勤務で、日常の仕事自体が危機管理の連続であった。 坑場は上下70m、南北5kmから10Kmが守備範囲で、この広さの中に部下40人が拡散して仕事をする。主任の仕事は目の届きにくい現場を掌握して、生産と安全の確保を考え、実行するこにある。直属の部下である複数の組長との信頼関係の確立、自分の親父ぐらいの年齢の者もいる作業員たちとの信頼関係が、すべてに優先された。 労務管理が不得意では鉱山の係員にはなれない。飲めない酒も飲まざるを得ない。浜会、花見は坑場の重要行事で、40人からの盃を受けなければならない。 もう飲めないと断れば、「俺の盃を受けられないのか」とすごまれる。 酒を飲むのも、労務管理の一環なのだ。 だから、会での飲食物は全て会社持ちだ。

 Ma係長からは信頼関係の大事さを教わった。 教わったというより、怒鳴り飛ばされながら身に付けていったと言える。 或る時、中堅の作業員が事務所の自分の机の前に来て、「会社を辞める」と言ってきた。 以前から、退職希望を聞いていたし、翻意する可能性がないことを周辺から確認していて、Ma係長にもその旨話していた。 自分の処での話が終わったので、「Ma係長に挨拶するように」と、彼独りで係長のもとに行かせた。 彼が帰った後、Ma係長に「ちょっと来い」と大声で呼ばれた。「お前は彼と一緒になぜおれのもとに来ない。お前から俺に退職理由を説明する。 それが上司としての、退職していく部下に対する礼儀ではないのか。 係長のところに行って来い的な部下のあしらいをして、彼らから信頼を得られると思うのか。」と頭ごなしに怒鳴られ、言い返す言葉がなかった。 「こんなことも出来ないなら、お前なぞ用はないから、会社を辞めてしまえ」と烈火のごとく叱られた。 この叱咤が、自分の労務管理の原点であると今でも思っている。 心から叱ってくれた上司には今でも感謝している。 鉱山親睦会に80歳近いMa係長は毎年出席している。 10年前から腎臓を傷め人工透析をしているが、昔と同じように話は明快で歯切れよく元気である。

 同じ坑場で一緒に仕事をしたSa組長には感謝しても感謝しきれない。 彼は、深部の現場で3年程、自分の直属の部下であった。 彼はベテランの一級組長で彼の下に二人の二級組長が配属されていた。 Sa組長は坑内経験、技術、人身掌握能力、人格、男っぽさ等どれをとっても一級品であった。 経験不足の若手上司の顔を立てることも見事であった。 Sa組長とは誰もいてない坑内見張り(坑内現場事務所をこう呼んでいた)で良く話をした。 彼は、自分の事を「親方」とよぶ。自分も彼には地のままの自然体で接した。 Sa組長からは坑内の事を身を以て教わった。 彼は自分との職場を最後に退職したが、9年間の鉱山勤務で自分の抗場から一人の死亡災害を出さなかった。 仲間の主任たちの殆んどは死亡災害を経験している。 親睦会でかつての仲間たちに会った時にも「未だ部下を死亡させた時の夢を見る」と言われる。 自分が辛い思いに駆られることなく、現在を過ごせるのは、Sa組長の見事な補佐と、彼の長い経験から身につけた坑内保安のノウハウを伝授してくれたことにあると思っている。 自分の坑場から出火して全山の操業を10日間止めてしまった大失態をしたことがある。 二の方での溶接作業の火花が原因で出火したのだが、場所の確認のため、Sa組長と二人で素面で35mの堀上りを風上から出火元まで近づいた。酸素不足から炎も上げず、炭のごとく真っ赤に燃える坑木群を、息を飲んで二人で眺めていた。 風向きが変われば、一瞬で命を失いかねない状況である。  このことは、上司には報告していない二人だけの秘密であった。 知られたら、この危険な行為は確実に処分の対象になる。Sa組長は退職後、福岡に居を構えた。 昨年まで毎年年賀状のやり取りは続いたが、今年は宛先知れずで戻ってきた。 今一度、彼と酒を酌み交わしたかった。

 採鉱課の先輩にToさんが居る。 鉱山に赴任した時の寮長で独身時代には世話になった。 月に何回か、島最大の街に寮生全員でタクシーで繰り出し、料亭で芸者をあげて飲ませてもらった。 金を払った記憶はない。 支払いは、全て会社がしてくれていたようだ。 今の時代では考えられないが、幹部候補生として大事にしてもらったのだと思う。 Toさんとは、Ma係長の現場で同じ抗場主任として机を並べた。 労働組合時代には3年間、同士として苦労した。 閉山後、本社で廃水処理の仕事を15年間共にした。 会社勤めでは彼と苦楽を共にした時間が最も長い。 鉱山親睦会で会った時には話の種が尽きることはない。 自分と年齢はたいして違わないが、最近老いが進行している感じで心配している。 自分の人生で大事な人の一人だから。

 学生時代の山の仲間は利害関係のない純粋に趣味を同じくする集団だが、鉱山の仲間は年齢も経歴も職種も異なる集団である。 鉱山閉山後すでに数十年が過ぎている今、70歳、80歳を超えて共に語らい、酒を酌み交わすことが出来るのは、僻地の閉鎖社会の中で、命を懸けて共通の仕事をして来た共感があるからだろう。 自分には経験はないが、軍隊経験者の集会の感覚に近いのかもしれない。仕事の内容はきれいごとではない。 理屈を言いあっていれば事足りる世界ではない。 自分の全存在をかけて、場合によっては生命の危険を感じながら、過ごしてきた日々の共通体験が暗黙知としてあるのかもしれない。

 20台の血気盛んで、生意気盛りの時代に二度とできない体験をしたことは、その後の自分の人生にとって大きな糧になったのは事実だ。 上記の人達だけでなく、多くの忘れがたき人たちがいる。 既に亡くなられた方も多いし、病床に臥せっている方もいる。 対州の鉱山で出会った人たちは、自分の今の人生を支えてくれている大事な人たちだ。 斜陽の金属鉱山に飛び込むとは、先が見えないのかねと、冷笑された事もあったが、都会の会社勤めでは決して経験できない多くの事が、老後の自分を支え、生きていく源泉になっている。 誰にとっても、どんな人生であったとしても、現世で生きてきたことで意味のないことは一つもない。

 自分が選鉱から採鉱に転職したのには訳がある。 赴任した年の鉱山運動会で 60Kgの土嚢を担いでグランドを走る競技があった。 自分はそれに参加して優勝してしまった。 当時の所長が、あいつは選鉱には似合わない、採鉱に引張れと採鉱課長に指示したそうだ。 鉱山の客間で上層部のお歴々にご馳走になり、採鉱に来いと勧誘された。 そこまで言われて断る理由などない。 意気に感じなければ男ではない。 その時席を準備した総務課長は現在88歳、鉱山親睦会に矍鑠として出席されている。 この誘いを断り、選鉱課に留まったら人生経験もが変わっていただろう。 流れに逆らわわず、身を任せることも人生で大事なことの様に思える。
  

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