2011年7月6日: 対州の忘れ得ぬ人々 GP生 ![]() 自分が赴任したのは国内鉱山で最大級の鉛亜鉛鉱山であった対州鉱山である。 対馬の下島にある。 対州鉱山の歴史は古く、おおよそ1300年以上昔に遡る。 当時の対州銀山から朝廷に献上された銀が、日本初であることが知られている。 蒙古襲来の時に国主宗助国以下80数騎が蒙古の軍勢に立ち向かい、全騎討ち死した場所は、鉱山より西へ2Kmの小茂田浜である。 この海岸に立ち西を見ると、60数キロ先の朝鮮半島の山々が薄っすらと見える。 昨今、半島からの観光客が島を賑わし、何処の国の島かわからないと嘆かれている。 江戸時代以前から、対馬は半島の影響を色濃く受けてきた島だ。 当時、島内でハットするような美人を見かけたが、半島の影響なのかもしれない。 ![]() 鉱山では9年間生活をした。結婚生活もここがスタートの場所であり、当時妻は慣れない生活環境の中での人間関係に苦労したようだ。 妻にとっては、苦労の方が印象深い様だが、自分にとっては、社会人としての一歩を踏み出した場所であり、自ら望んで飛び込んだ仕事であるだけに、忘れえぬ人達は多い。 ![]() 採鉱課のMa係長には公私ともに大変お世話になった。 入社一年目は選鉱課で過ごしたが、縁あって翌年、採鉱課に配属になった。 その時の直属の上司がMa係長であった。 一年間の係員実習の後、40人の部下を持つ坑場主任を拝命した。 この係は鉱山最大の出鉱量と品位を誇り、文字通り対州鉱山の大黒柱で、作業員は400名を超えていた。 昼夜二交代勤務で、日常の仕事自体が危機管理の連続であった。 坑場は上下70m、南北5kmから10Kmが守備範囲で、この広さの中に部下40人が拡散して仕事をする。主任の仕事は目の届きにくい現場を掌握して、生産と安全の確保を考え、実行するこにある。直属の部下である複数の組長との信頼関係の確立、自分の親父ぐらいの年齢の者もいる作業員たちとの信頼関係が、すべてに優先された。 労務管理が不得意では鉱山の係員にはなれない。飲めない酒も飲まざるを得ない。浜会、花見は坑場の重要行事で、40人からの盃を受けなければならない。 もう飲めないと断れば、「俺の盃を受けられないのか」とすごまれる。 酒を飲むのも、労務管理の一環なのだ。 だから、会での飲食物は全て会社持ちだ。 ![]() 同じ坑場で一緒に仕事をしたSa組長には感謝しても感謝しきれない。 彼は、深部の現場で3年程、自分の直属の部下であった。 彼はベテランの一級組長で彼の下に二人の二級組長が配属されていた。 Sa組長は坑内経験、技術、人身掌握能力、人格、男っぽさ等どれをとっても一級品であった。 経験不足の若手上司の顔を立てることも見事であった。 Sa組長とは誰もいてない坑内見張り(坑内現場事務所をこう呼んでいた)で良く話をした。 彼は、自分の事を「親方」とよぶ。自分も彼には地のままの自然体で接した。 Sa組長からは坑内の事を身を以て教わった。 彼は自分との職場を最後に退職したが、9年間の鉱山勤務で自分の抗場から一人の死亡災害を出さなかった。 仲間の主任たちの殆んどは死亡災害を経験している。 親睦会でかつての仲間たちに会った時にも「未だ部下を死亡させた時の夢を見る」と言われる。 自分が辛い思いに駆られることなく、現在を過ごせるのは、Sa組長の見事な補佐と、彼の長い経験から身につけた坑内保安のノウハウを伝授してくれたことにあると思っている。 自分の坑場から出火して全山の操業を10日間止めてしまった大失態をしたことがある。 二の方での溶接作業の火花が原因で出火したのだが、場所の確認のため、Sa組長と二人で素面で35mの堀上りを風上から出火元まで近づいた。酸素不足から炎も上げず、炭のごとく真っ赤に燃える坑木群を、息を飲んで二人で眺めていた。 風向きが変われば、一瞬で命を失いかねない状況である。 このことは、上司には報告していない二人だけの秘密であった。 知られたら、この危険な行為は確実に処分の対象になる。Sa組長は退職後、福岡に居を構えた。 昨年まで毎年年賀状のやり取りは続いたが、今年は宛先知れずで戻ってきた。 今一度、彼と酒を酌み交わしたかった。 ![]() 学生時代の山の仲間は利害関係のない純粋に趣味を同じくする集団だが、鉱山の仲間は年齢も経歴も職種も異なる集団である。 鉱山閉山後すでに数十年が過ぎている今、70歳、80歳を超えて共に語らい、酒を酌み交わすことが出来るのは、僻地の閉鎖社会の中で、命を懸けて共通の仕事をして来た共感があるからだろう。 自分には経験はないが、軍隊経験者の集会の感覚に近いのかもしれない。仕事の内容はきれいごとではない。 理屈を言いあっていれば事足りる世界ではない。 自分の全存在をかけて、場合によっては生命の危険を感じながら、過ごしてきた日々の共通体験が暗黙知としてあるのかもしれない。 20台の血気盛んで、生意気盛りの時代に二度とできない体験をしたことは、その後の自分の人生にとって大きな糧になったのは事実だ。 上記の人達だけでなく、多くの忘れがたき人たちがいる。 既に亡くなられた方も多いし、病床に臥せっている方もいる。 対州の鉱山で出会った人たちは、自分の今の人生を支えてくれている大事な人たちだ。 斜陽の金属鉱山に飛び込むとは、先が見えないのかねと、冷笑された事もあったが、都会の会社勤めでは決して経験できない多くの事が、老後の自分を支え、生きていく源泉になっている。 誰にとっても、どんな人生であったとしても、現世で生きてきたことで意味のないことは一つもない。 自分が選鉱から採鉱に転職したのには訳がある。 赴任した年の鉱山運動会で 60Kgの土嚢を担いでグランドを走る競技があった。 自分はそれに参加して優勝してしまった。 当時の所長が、あいつは選鉱には似合わない、採鉱に引張れと採鉱課長に指示したそうだ。 鉱山の客間で上層部のお歴々にご馳走になり、採鉱に来いと勧誘された。 そこまで言われて断る理由などない。 意気に感じなければ男ではない。 その時席を準備した総務課長は現在88歳、鉱山親睦会に矍鑠として出席されている。 この誘いを断り、選鉱課に留まったら人生経験もが変わっていただろう。 流れに逆らわわず、身を任せることも人生で大事なことの様に思える。 |