【伝蔵荘日誌】

2011年6月30日: 人は何故心配するのか GP生

 福島第一原発で最大の障害になっている高濃度汚染水の処理が遅ればせながら本格的に始ったようだ。 当初、6月中旬の本格処理運転の開始予定が、単純ミスの連続で遅れていた。 1日400トン近い水を原子炉に注入しているのだから、処理が遅れれば放射性物質の海洋流出の危険が心配される状態であった。自分には心配しながらハラハラして事態の推移を見守るしかできなかった。  水処理装置も4方式の処理ユニット組み合わせが概念的に情報提供さているだけだ。

 油脂類を除去したのち、粒子の大きな汚濁物質を除去し、微細な放射性物質の除去がセオリーだが、装置の詳細が分からない。 本格運転5時間でゼオライト吸着塔がダウンしたと報道各社は鬼の首でも取ったかのように、東電非難の報道に終始した。単純ミスは別にして、東電は吸着材の一部を他の物質に交換して問題をクリアーしたようだが、個人的にはもっと詳しい情報が欲しい。 処理不調の原因とその対策の内容は高度な専門知識を持たなくても、一般国民の常識で理解できる程度の物だと思う。 報道比重はトラブル8割、解決報道2割程度で、聞き及ぶ限り原因と対策内容は良く理解できない。 報道する人間自体が関心を持たないから、お座なりの記述となる。この結果、一般国民にはまた同じようなトラブルが起きるのではないかと、心配の種だけが残されることになる。

 今回の福島第一原発事故の報道は、これと同じことの連続であった。 意図的な情報隠しは別にして、自分で調べない限り、発表される数字の持つ意味すら、キチンと認識することはできない。 とくに、言いっぱなしのテレビの害は大きい。 映像にならなければ、商売にならないとする宿命からか、誇大報道の垂れ流しが多いように思える。 これ等の様に、真実が判らず、恐怖感と不安感をあおられると、人は全ての事に心配の連鎖を起こす。風評被害なるものがその証拠だ。

 事実を正確に知ることによって、心配をなくすことが出来かと言えばそうではない。 一つの問題をクリアーしても、二次、三次的に心配の種が芽生えてくる。日常生活でも心配は尽きない。 健康問題、発がんの不安、経済問題、夫婦の関係、嫁と舅、老後の生活等々幾らでもある。日本の今後に大きな影響を及ぼす震災復興の在り方や、福島原発事故収束の行方、さらに電力供給と原発存続の是非等、一人一人の国民の意思や意欲では解決できない問題がある。 しかし、自分ではどうにも出来なくても、不安と心配だけは間違いなくついて回る。 これ等の心配も、もし自分がガンと宣告されたら、全て彼方に消え去り、自分の健康のみが心配の種となろう。過度な心配の継続は人にとってストレス源となり、人体にダメージを与え、各種の生活習慣病発症の遠因となろう。 人の心身は長期の継続的ストレスに耐えられるほど強靭ではない。

 人は福島原発や大震災による被害の心配はしても、心配のあまり自らの命を縮める行為には至らないだろう。 しかし、自分の将来に対する心配が大きかったり、自分の言動によって相手に大きな迷惑をかけた時には、心配を通り越し絶望感から命を絶つことも在るだろう。如何なる心配も、自分で解決出来たり、解決の方向付けが出来れば悩みには発展しないが、幾ら考えても、解決の見通しが立たず心配し続けることの方が遥かに多いと思う。 この時、どのような心構えをすれば、心配のストレスを避けられるのだろうか。 この心構えはひとそれぞれで、もって生まれた性格、人生経験、男女の差、生活環境、周囲の人間関係等により対処法が異なるのは誰でもが知っていることだ。 第三者の立場であれば、問題の解決方法を考えられても、自分が同じ問題に直面した時、同様な思考が出来るわけではない。

 一見豪放磊落、人生経験も豊富で酸いも甘いもかみ分けられるような、安定感抜群の人間でも、心配の袋小路に身を置かざるを得ないときには、極めて弱い人間性を露呈することになる。 他者に示す姿と本当の自分との間に大きな隔たりを持つのが人間だ。 人間は人との繋がりのの中で生きていけるが、悩みを抱え、たった一人で問題を解決しなければならない行き止まりの道に追い込まれたとすれば、目先の暗闇から抜け出す発想の転換など出来ないのが普通だ。 どんなに強そうな人間だって、それぞれ一人だけでは極めて弱い存在だと思う。 歳をとればとるほど、夫婦を中心に他の人達との濃密な人間関係が結果的に救いになることは多い。 自然体でありのままの自分をさらけ出して生活できればストレスは少ないが、他者との軋轢は確実に増える。自然体で付き合える人間関係はほんの一部の人との間でしか成立しないものだからだ。

 自分は日常生活で生ずる問題や心配事に対しては、まず問題の解決法や対処法を考える。 直ちに解決で 家人を救急病院で診断させるときは、医者の判断を第一義に尊重する。応急処置の後は医者の診断と家人の病状を考え、その病院で継続受診をするか他の病院を選択するかを判断する。 判断の付かない時は医者の診断をとりあえず信じて様子を見ることになる。 かって、高齢期の両親が何回も繰り返した受診に対しては、上記の基本的覚悟で処してきた。自分の判断ミスで病状が悪化した事はないが、自分として最善を尽くした判断であれば、生じたどの様な結果でも、甘んじて受けるつもりでいた。 だから、決断した後は外目には平然として居たように思えるだろうし、冷たく突き放している様に見えたかもしれない。無闇やたらに心配するのは性に合わない。 如何にもならないときは思考停止をする。 幾ら考えても如何にもならないことは、如何にもならない。思考の堂々巡りの袋小路の中で悩み続けるより、多少は健全だと思う。但し、腹を括って思考停止するには少々の精神力は必要だが。今まで、何回もこの手で難局を乗り越えてきた。腹を括っても、心配が全くないと言えば、それはウソになるが、不安感のまり心配で身が震えるような思いをしたことはない。

 病気に限らず、日常生活での心配の種は尽きない。 心配は事態の先が見えないから生ずる。 福島第一原発にしても、高濃度汚染水処理の循環冷却システムが安定的に稼働しても、それは第一歩に過ぎない。 原子炉内の溶融落下した核燃料を如何に回収するかとの難問が控えている。 圧力容器のみならず、格納容器すら突き抜けている可能性すらある。 これ等を今、徒に心配しても始まらない。安定冷却により核燃料の発熱が取扱い可能まで収まるには何年もの時間を要する。この過程の中で、現場で解決法は見出されるはずだ。 過去に生じた、様々な技術的トラブルは、一見不可能と思われる事象でも、現場技術者の努力で解決されてきた。 マスメディアでは報道されることは少ないが、日本には経験を重ね、磨かてきた技術の集積がある。自分はこのことを信じてやまない。

 心配事の種は生きていく限り、無限に継続する。 これをそのまま放っておいたら、ストレスで身が持たない。 処理不能な問題、時間を要する事柄は熟慮した上、どこかで割り切る必要がある。 理詰めで考える心配は怖くはない。本当に恐ろしいは自分の生命と存在を脅かされる心配事が生じた時だろう。この時は自分が生きてきた全人生が試されるし、この世に生を受け、現世で生きてきた証を示すことになる。 心配事は現世での魂の修行の糧であろう。一つ一つ乗り越えていくことが、自分の成長に繋がることを想えば、心配事から逃げる行為は愚かとも言える。 自ら積極的に心配事に正面から立ち向かっていく時、心配事が自然消滅することすらある。

 菅直人の如き人物は国民を忘れ、内閣総理大臣の職を失うことを心配して汲々としている。 彼はこの愚かな姿が、彼の本来の魂を汚すことになることに思い至らなければならない。このままでは、国民の心配の種は大きくなるばかりだ。

 悩み事を心配事で終わらせず、乗り越える覚悟と勇気があれば、かって自ら命を絶った仲間たちも、あの世ではなく現世での魂の修行に励めていたであろう。かって、若き日に人生の同伴者であった彼らの早すぎる死を残念に思う。

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