【伝蔵荘日誌】

2011年6月3日: 剣岳に想う。 GP生

 先日、所要のためTG君のお宅にお邪魔した時、学生時代に夏合宿の後、北アル プスを縦走した昔話になった。 富山から宇奈月温泉を経由する、いわゆる黒部ルー トで入山して剱岳から始まる立山連峰を南下し、穂高、槍ヶ岳を経て上高地に 至る約二週間にわたる縦走であった。 参加者はTG君、To君、Waさん、それに自分 の四人であった。 特に、パーティリーダーは決めず、行動全般はアンウンの呼吸 で進めた。 お互いの性格も気心も山の実力も十分理解しあっていたので、難しい 議論も諍いもない楽しい山行であった。 あの時の様に、楽しく充実した山行は後 にも先にも一度も経験していない。

 特に、剱岳は印象深い山であった。 剱岳は北アルプス立山連峰の最北端に位置し、多数の鋭い岩峰が林立している中に、主峰が厳しくそそり立っている。 遠望すると、這 松の濃緑と黒褐色の岩峰の合間に連なる雪渓が織りなす荘厳な佇まいは、見る人 に畏敬の念を覚えさせる。 古来から、霊山として山岳信仰の対象として崇められ てきたのは、むべなるかなである。  標高2999m、登山ルートが確保されている今でも簡単に登れる山ではない。

 以前、BSで映画「剱岳 点の記」とその撮影記録映画「標高3000メート ル 激闘の873日」が放映された時、HDに録画をしておいた。  TG君との話に刺激され、帰宅してから両方の映画を4時間かけて見た。  監督は木村大作、69歳。 彼は50年にわたる映画カメラマンで、最初で最後の 監督作品だという。 製作日数の殆んどを剱岳周辺の山岳ロケに費やしている。  原作は新田次郎。 主人公の測量手柴崎芳太郎は浅野忠信、準主役の山案内人宇治 長次郎には香川照之が演じていた。 時は明治39年、当時の陸軍参謀本部陸地測 量部が、測量空白地帯として最後まで残っていた剱岳周辺を三角測量するために、 剱岳に三角点を設置する話である。 日本山岳会との初登頂争いも絡んでくる。   宇治長次郎は現在、剱岳東面の大雪渓が長次郎谷として名を残している。 点の記 とは陸地測量部の三角点設置測量の記録の事だそうだ。

 木村監督はカメラマン出身だけあって、撮影の本物感に徹底的にこだわった。  撮影は剱沢小屋をベースに監督、俳優以下スタッフ20余名が山に籠り、一カッ トの撮影に片道8時間かけて目的地に行き、天候が悪く視界不良であれば、撮影 せず来た道をまた戻る。 そんな日々を幾度となく繰り返している。 出演する役者 達を明治の測量隊の気持ちに同化させるため、順撮りと称する手法、すなわち、 物語の進行通りの撮影にこだわった。  日本海に近い剱岳周辺は特に気象の変化が激しい処だ。 順撮りのため、ワンカッ トの撮影が出来なければ、先へ進めない。 天候の僥倖に頼る撮影で、見ていると 明治の陸地測量部が辿ったであろう労苦と見事重なる感じがする。

 苦労を重ね、柴崎以下が剱岳頂上にたどり着き、四等三角点を設置し測量を終 えた。 当時の陸軍上層部は初登頂のメンツにこだわり、柴崎に圧力をかけていた。  しかし、登頂した柴崎らが山頂で見たものは、1000年以上前に登頂した、山 岳修験者が残した鉄剣や錫杖であった。 初登頂ではなかったのだ。 さらに、三等三角 点の器材を頂上に上げることが出来ず、暫定的な四等三角点しか設置できなかっ たことが、上層部に評価されず、公式報告書に登頂者の名も月日も記載されてい ないと言う。

 木村監督がこだわっただけに、剱岳を始めとする、四季折々の後立山連峰の山 々の美しさは、息をのむ思いで、久しく忘れていた山への想いが心の底から湧いて くるのを覚えた。
 卒業の年の3月、卒論の追い込み実験のため研究室に寝袋や日常用品を持ち込 んで生活していた。 自分の誕生日の夜、瀬峰寮が火事で焼失したと知らされた。  寮生の一人か禁止されていた電気ヒーターを秘かに使用した結果の漏電であった。  山の道具や今までの山行写真、高校時代から記録していた山日記等全てを失った。  焼け跡から、愛用していたピッケルのヘッドが出てきた。  学生時代、多い年で100日から150日山歩きをしてきた記録は頭の中の記憶 を除いてすべて焼失した。
 4月には就職の決まった離島の鉱山に赴任しなければならない。 博多港から6時 間の船旅、更に1時間のバス乗車の勤務地では山行など望めない。  学生時代のすべての物が誕生日に焼失したことは運命的にすら思えた。 焼け焦げたピッケルヘッドを眺めながら、自分の山行が全て終わったと悟った。 それ以来、50年近く山らしい山に登っていない。

 そんな自分でも、液晶画面に映し出される剱岳山頂からみる富士山の姿に心を 揺り動かされた。 南アルプス合宿の時、赤石岳山頂からの富士の姿に感動したが、 日本海に近い剱岳から遥か彼方の富士の山は格別な想いがする。
 苦難の末に命がけで剱岳の登頂を果たした測量隊に対して、剱岳は千年以上前に 登頂されていた事と三等三角点を立てられなかった故、登頂実績は陸軍内部で評 価されなかった。 この時柴崎は「何を成したのではなく、何のために成したのかが大切だ。」と語っている。 非常に含蓄のある言葉だ。深く噛みしめてみたい。

 北アルプス縦走時の四人の内、To君は長い闘病生活の後昨年逝去された。 長身、色白のハンサムボーイて抜群のスタミナを誇った。協調性に富んだ性格は パーティーにはなくてはならない存在であった。
 Waさんは一年先輩であるが、後輩の自分たちと良く気が合った。 自由奔放、自 分の感情に忠実な人で、誰にでも愛される人柄でもあった。 学生時代には何回か 脱線したが、いつの間にか軌道修正する器用さも兼ね備えていた。 四人での北アルプス縦走の翌年に、夏休みのアルバイトと称して剱岳の池の平小屋でボッカ稼業に入れ込んだ。 現在、秋田に在住するが、老境に入っての脱線生活がたたってか、昨年末、視力 の80%近くを失い失意のどん底に落ち込んだ。 最近白内障の手術が奏功して新 聞の見出しが読めるようになった。 献身的な奥様の介護のもと、元気を取り戻し たようだ。

 剱岳と言うと、富山に在住するIkさんご夫妻が忘れられない。 奥さんは自分 たちと同期のワンゲル部員で、ご主人はWaさんと同期の一年先輩であった。 卒業後縁あって結婚されたが、山好きのお二人は剱岳登山に便利な富山に居を構えている。晴れた日には、富山市街から剱岳が眼前にそそり立って見える。 奥さんは部員時代には「キンチャン」の愛称で親しまれ、小柄ながら山行スタミナ抜群で明るく何事にも積極的な女子学生であった。 彼女と仲良しで一緒に入部したNaさんは学部進学時に退部した。素直な性格で好奇心旺盛な女性であった。 卒業後結婚されたが、40代半ば過ぎで病を得て亡くなられたと、風の便りで聞いた。彼女の事は遥か昔の甘酸っぱい想いと共に、忘れがたい記憶として心の片隅に残されている。

 伝蔵荘仲間とは例会と称する、春と秋の合宿を伝蔵荘で行うのを習いとしている。  部活仲間であっても卒業後に多数の人達と交誼を継続することは中々難しいことだ。  それがお互い古希を迎えても親しい付き合いが可能なのは、山小屋「伝蔵荘」の 存在があるからだと思う。 自分は離島の鉱山勤務で何の貢献もしていないが、TG君やMa君の先見の明と尽力で山小屋が建てられ、維持されて来たことが現在につながっている。 自分が参加したのは50代半ばを過ぎてからだが、何十年かの間隔を置いての合 宿に違和感はなかった。 人間交流の不思議を想う。

   かっての山仲間の何人かは既に鬼籍に入っているし、所在不明の仲間もいる。 剱岳がキーワードとなって、昔の事をいろいろ思い出した。考えてみると単な る思い出ではなく、種々の糸で現在に繋がっていることが感じられる。 人の一生は現世のみであるが、「魂は過去世から来世まで繋がって終わることが ない」ことを思えば、今に続く山の仲間たちとの繋がりも、縁ある魂の仲間達で あるのだろう。 人は過去を悔い、人生をやり直したい思いに駆られることもあ るかもしれない。 けれど、悔いのある人生もかけがいのない人生であり、過ちを 振り返り真摯に反省することにより人は成長してきた。 自分は多くの躓きはあっ たものの、今にして思う「悔いのないない学生時代であったと」。
 かっての山の仲間達と共に、お互い老境に入って久しいが、車を操って八ヶ岳山 麓の伝蔵荘に集まれる喜びが、長く続くことを願ってやまない。 いずれ我々も、それぞれ定められた場所に旅立つことになると思う。 先発されたかっての山仲間たちの冥福を祈っている。   

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