伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2011年5月11日: 暇爺の忠告と先生の思い出 T.G.

 ビンラディンのことを書いた前の日誌について、暇爺からメールをもらった。彼は数少ない伝蔵荘日誌の“愛読者”の一人である。「(気持ちは分からぬでもないが)君のように何でもかんでも疑って非難ばかりしているのでは、人生楽しくないじゃないか。もうこの歳になったら後は死ぬだけなんだから、気軽に毎日を楽しまなくちゃ。」と言う有り難い忠告である。さもありなん。さっそく返事を書いた。「何でもかんでもというと言うつもりはありませんが、まあ生まれ持っての気質ですから仕方ありません。死ぬまで治らないでしょう。でも歳を取って批判精神を失ったら、人間お終いですから」と。人の言うことを素直に聞かない年寄りは、これだから嫌われるのか。

 暇爺の忠告はビンラディンのことだけではない。彼は今回の被災地支援のボランティア活動をしており、そのやり取りの中で小生が「赤十字経由で義捐金を送ったが、いまだに被災者に一円も配られていない。実にお役所仕事だ。義捐金のかなりの部分が日本赤十字社の人件費や運転資金に使われているという噂もある。」と非難したことにも触れている。そういちいち目くじら立てんでもいいではないかと。(申し訳ない。罪滅ぼしに「暇爺のお気楽日記」へのリンク、張っておきます。)

 こういう何でもかんでも斜に構えて見る“ひねくれた”気質は、中学校の社会科の仁科先生の影響だと思っている。仁科先生は授業中ことあるたびに、「新聞に書いてあることがすべて正しいと思うな。物事には何でも裏がある」と、生徒に繰り返し教えた。「あの先生は赤だ」と言う噂もあった。それまでは生まれつき実に素直な子供で、人の言うことは何でも疑わず、すぐ本気にするたちだった。将来この子は大丈夫かと、母親が危ぶむくらいナイーブな子供だった。それがわずか3年間の教えで正反対にひっくり返る。新聞も素直には読まず、疑ってかかるようになった。松下村塾とまではいかずとも、げに教育とは恐ろしいものだ。

 小学校から大学までの学校教育を振り返って、この歳になるまでのものの考え方や人生観形成に特段の影響を与えていただいた先生が5人いる。仁科先生の他、高校の世界史と音楽の先生(ご尊名を失念した)、化学の青野先生、大学数学教室の佐々木重夫教授の5人である。そのほかにもお世話になった先生はたくさんいるが、すべて思い出の中だ。

 高校の授業のうち、最も好きで、今でも記憶に残っているのは世界史の授業だ。特にフランス革命のあたりが面白かった。先生もお好きだったらしく、このあたりに差し掛かると、普段は控えめな先生の口調が心なしか高揚した。ある日特別授業と称して音楽室に連れて行かれ、シューマンの歌曲、「二人の擲弾兵 」のレコードを聴かせてくれた。ナポレオン戦争時にロシアに捕らわれた二人の擲弾兵が、祖国フランスに帰還する途中の会話をハイネが詩に書き、シューマンが作曲したもので、後半部分でその後フランス国歌になった「ラ・マルセイエーズ」のメロディーが現れる。フランス国歌誕生だけで授業に1時間かけたわけだ。後年、旅行で初めてパリを訪れた際、高校の世界史の時間に慣れ親しんだ地名や場所が沢山あって、懐かしい気がした。初めて訪れた街という気がしなかった。今の何でも歴史に照らし合わせて考える習性は、この先生の授業で培われたと思っている。

 もう一つは音楽の授業である。全生徒が美術、書道、音楽のいずれかを選ぶ。音楽を選択した小生は、旧制中学時代からある校庭の音楽堂で3年間授業を受けた。時々レコード鑑賞の時間があって、ベートーベンやブラームスやモーツァルトを聴かされた。戦後間もない、クラシック音楽どころか、中学校にピアノもなかった時代である。最初のうちはただうるさいだけで何の感興も湧かなかったが、ある晩熱を出して布団にくるまって寝ていたとき、枕元に置いてあった5球スーパーの安物ラジオから、世にも美しい音楽が流れてきた。熱に浮かされていたせいか、この世のものとは思われないほど甘美に聞こえた。後でその曲がモーツァルトの名曲、アイネ・クライネ・ナハトムジークだと知った。それからクラシック音楽に目覚め、母親にねだって秋葉原で安物のステレオを買ってもらい、毎日のようにレコードを聴いた。老年になっても楽しめる音楽趣味は、この先生の授業の賜物と感謝している。ある時の期末試験はシューベルトの「アベ・マリア」だった。一人ずつ前に出て、先生のピアノ伴奏で歌う。例の波のようにゆったり上下するアルペジオの旋律に乗って唱うのだが、他の連中は難なくできるのに、リズム音痴の小生は歌い出しのきっかけがうまくつかめず、何度も間違えた。今でもこの曲を聴くと懐かしい気がする。

 化学の青野先生の授業も面白かった。ペーパークロマトグラフィーの実験をしていたとき、溶媒より先に進む色が見えた。友人達は、それは君の見間違いで、試薬が溶媒を追 い越して先に進むはずがない。教科書にそう書いてある、と口々に言う。そのやり取りを聞いていた青野先生が、教科書には書いてないが、そう言うケースもあるのだと教えてくれた。東北大の化学科を出たばかりの若い先生で、時々仙台時代の話をしてくれた。自分が同じ大学に進んだのはこの先生の影響が大きい。何年か後、青野先生は金沢大学に移られた。もともと化学畑の研究者を目指しておられ、高校教師は腰掛けだったのだろう。会社に入って、営業に同行して金沢大学へコンピュータの売り込みに行ったとき、機種選定委員の一人だった青野教授の部屋を訪問した。憶えていて下さって、「先ほどOt君も来ていたよ」と言われた。Ot君は同じ高校の同期で、偶然同じようにH社のコンピュータの売り込みに来ていたのだ。Ot君とはその後同じ業界で何度か顔を合わせた。

 青野先生の感化にもかかわらず、大学では数学を専攻した。数学は人類が考え出した最も奥深い学問である。学部3、4年生の授業は、その深淵をほんの少し覗き込ませてもらう程度の内容でしかない。数学科の学生15人のうち、大学院へ進んで一生数学で飯を食う覚悟ができている出来のいい半分は、はるか先のことを勉強しており、我々と一緒の授業はお遊びのようなものである。それなのに自分を含めた出来の悪い残りの半数はついていくのがやっと。こんな連中に留年でもされたらたまらぬと、余程のことがなければ卒業させてくれた。4年生の時のゼミは佐々木重夫先生の位相幾何学を取った。就職試験の時、佐々木先生に推薦状を書いてもらった。当時は指定校制だったので、担当教授の推薦状があればどこの会社もほぼ無条件で採用してくれた。東京の本社へ面接を受けに行くとき、教授室へ挨拶に行った。先生が「面接で質問されたら、はきはき答えるのですよ」と、二十歳も過ぎた学生に幼児を諭すように話しかけられた。佐々木重夫先生と言えば、当時の日本数学界の大御所である。こんな大先生からこういう優しい言葉をかけてもらえただけで有り難い気がした。授業内容はほとんど忘れてしまったが、この先生の言葉だけは今でも覚えている。

 暇爺の忠告のおかげで、懐かしい先生方のことを思い出した。感謝!

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