2010年4月21日: 大震災時の決断と想像力 GP生 ![]() 今回の大震災は27000人を超える死者・行方不明者を出す惨状を呈した。 そのほとんどが津波による犠牲者であり、犠牲者を想うと言葉では表せない悲しみに襲われる。 その中にあって、釜石市の小中学校14校の児童・生徒約3000人は全員避難して無事であり、犠牲者を出していない。 この中で中学と小学校が隣接する地区では、先生の指示を待たず、中学生が「津波が来るぞ」と叫び、小学生を誘導したと言う記事を読んだ。 その後、避難した場所が危険と察し、更に高台に避難して全員事なきを得たそうだ。 激震が収まった後、中学生と言えども気は動転していたろうし、とても平常心ではいられなかった筈だ。 彼らは地震イコール津波と想像し、即「逃げろ」と判断し行動したことで、全員の生命が助かったのだ。 釜石市では5年前の千島列島沖地震で、津波警報が出たにもかかわらず、避難率が極めて低かったことに危機感を覚えた教育関係者の防災教育の成果だと言われている。 この時の報道で、警報が出てから津波見物に堤防に行ったり、水の引いた海岸で貝ひろいをした人がいたと言う記事があったのを思い出した。 その反面、北上川の畔に立つ小学校では、全校生徒108人の内、74人が津波で死亡・行方不明となった。 学校に居た教職員で生還したのは唯一人だった。 助かっのは迎えに来た父兄の車で逃げた生徒だけだそうだ。 校庭に整列した生徒たちは学校より7,8m高い北上川の橋のたもとを目指したが、津波は先頭の生徒目指して避難目的地の堤防を越えてやってきた。 学校の裏に山があるが何人かの生徒はそこに逃げて助かった。 津波の教訓が叩き込まれている三陸海岸と異なり、仙台湾に面した石巻では津波の凄さを想像できなかったことがこの悲劇を招いたのだろう。 最初から裏山に逃げていればとの思いは後知恵だ。 74人もの幼い生徒達が波にのまれ命を失うとは、目を覆いたくなる悲劇だ。 自分の子供や孫がその中の一人であったとしたら、一生癒されることのない傷を抱いて生きていかなければならなくなる。 ![]() 津波からいち早く逃げる決断も、更なる危険を回避するためにあえて危険に立ち向かっていく決断も、すべて日常の訓練の賜物だともいえる。 3月11日の午後、国会は開催中で、菅総理は在日外国人からの献金問題で野党の追及を受けている最中であった。 東京では激しい揺れの後、テレビが巨大地震の発生と東北地方の太平洋岸への10mを超す津波予報を一斉に報じた。 行政の最高責任者のまず為すべきことは、被害を受けた場所と規模をいち早く把握することだ。 防衛庁、海上保安庁、警察庁等の役所の所轄大臣を指揮して、航空機による偵察を命じることだ。 通常回線での東北の自治体と連絡が取れないことも想定しなければならないからだ。 いち早く得られる情報を集め、全体像を掴むことが次の行動を判断するために必要だ。 大規模災害の場合、手段を尽くしても全体像を掴むことが出来ないのが普通である。 少ない情報から、想像力を駆使して全体像を描き、対処するしか方法がない。 にもかかわらず、得られた情報から想像や推察を出来ない菅総理は、現場主義などと言うパフォーマンスに過ぎない軽薄な現場視察を翌12日にヘリで行い、福島第一原発の現場を混乱させて事故復旧作業を妨げた。 12日には被害の凄まじさの情報はテレビでも断片的に報道されており、国民は息を飲んで見守っている頃にだ。 災害の全体イメージを描けずして、緊急対応の基本方針すら立てられない。 基本方針の決定は、少ない情報から想像力を駆使して行う、一刻を争う高度な知的作業だ。 細かい修正は逐次行えばよい。 震災の規模を想定できない総理は自衛隊の投入を、2万人、5万人、10万人と日替わりで発表した。 しかも、防衛省当局と事前協議をした節は見られない。 危機管理に長けた側近やスタッフが居ないのだろうが、あまりにも貧弱な想像力であり、決断に値しない思い付きの連続だ。 一市民活動家ならそれでも良かろうが、曲がりなりにも一国のリーダーたる内閣総理大臣だ。 お粗末極まる知的レベルと言える。 ![]() 災害現場での人命救助や被災者救援でも、原発事故現場でも、自衛隊・消防隊・警察・市町村職員・民間人など、多くの人々は少ない情報や物資、機材を想像力と決断で補い、涙ぐましい努力で任務を遂行している。 この間、官邸を始め政治家たちは何をしていたのだろうか。 自らがパニックになり、部下や現場を怒鳴り散らすことが、彼らの仕事のようにさえ思える。 政治家としての覚悟も修練も無い、愚劣極まりない現政権の首脳部は、かくも凄まじい災害に対処する危機管理は無理と悟るべきだ。 その証拠に災害後1ヶ月も過ぎれば、政府には災害発生当初と異なり、災害の規模も福島第一原発の情報も、十分情報があるにも関わらず、決断も言動もお粗末の一語に尽きる。 各省庁からの情報を十分吸い上げるシステムが機能していないのかもしれないし、情報を処理する能力に欠けているのかもしれない。 多分、その両方だろう。 官邸は今大災害にかかわる対策会議なるものを20近く乱立させた。 しかも、各省庁の役人抜きで民間人が主体だ。 対策会議で出された方針を実行するのは、民間人ではなく省庁だ。 震災1ヶ月になるのに、全国民の善意の救援金1400億円すら被災者の手元に届いていない。 配分金額を決めるのがやっとだ。 対策会議の議論には、規模は異なれど過去のデーターを十分に持っている各省庁の機能が不可欠な筈だ。 政治主導などと看板を掲げているからか、役人を活用する能力がないからかは知らないが、これだけの数の対策本部に議論させて、官邸は整合性を持った決断を出来るのだろうか。 似たような対策本部の乱立は、徒に混乱を招き決断・実行を遅らせ、強いては被災現場の国民を苦しめる結果にしかならない。 今の官邸の能力では、災害対策パフォーマンスの結果、混乱の種を自ら蒔いている様にしか思えてならない。 ![]() 「舘野村には10年、20年人が住めなくなる」と総理が発言したと問題になっている。 面会した松本内閣官房参与なる人物が、記者のぶら下がりで話した。 どちらの言かは別にして、この人物は自分の発言がどれだけのマイナスインパクトを国民と住人に与えるか想像ができないのだろうか。 少なくとも政府の中核にいる人物がする発言ではない。 想像力の欠けらもない愚か者だ。 菅総理がいくら原子力に強いか知らないが、日本国政府の最高責任者として、国民の生命と財産を守る使命感も責任感も見られない。 そのことは、役人の書いたメモを見ながら生気の無い声でボソボソと語る姿に現れている。 テレビは残酷にも人の本性を露わにする。 福島第一原発10Km圏内の大規模捜査を福島県警が行っている。 防護服に身を固めた県警本部長が陣頭指揮を執っていた。 非常時での指揮者のあるべき姿だ。 平時では現場で陣頭指揮などすることのない県警の最高責任者が、放射線防護服で現場に立っている。 最高責任者が部下と共に現場の最前線にいることを示すことは、非常時ほど大事なことだ。 総理の現場主義なるパフォーマンスとは次元が全く違う行為だ。 想像力も決断力も個人の人としての器を超えられないようだ。 人には生まれ持った器量があり、誕生後の人生修行での学習や経験を重ねることで、器を成長させる。 志が低い人間は地位や名誉を幾ら重ねても、人としての器が大きくならない。レッテルは何枚重ねてもレッテルに過ぎない。 平時ではボロを出さずに済んでも、非常時は人間の本質と器の大小を恐ろしいほど明らかにする。 ましてや、平時ですら愚かな言動で国民を呆れさせている人物においておやだ。 天災は避けることのできない宿命かもしれないが、このような国家指導者を選んだのは人災であり、運命と諦める訳にはいかない。 日本国の将来がかかっている。 |