伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2011年4月16日: 津波と菅野先生のこと T.G.

 朝早くに電話をもらった。電話口に出ると、大学の先輩で会社も同じだったKuさんだという。すぐには誰か分からないかったが、話しているうちに思い出した。ああ、あのKuさんかと。大学の数学科の7年先輩で、入社時にお世話になったことがある。大きな会社なので、その後仕事上の交流がなく、失念していた。思い出すに連れ話が弾んだ。

 Kuさんの電話は、大学の数学教室におられたと言う菅野恒雄先生のことである。Kuさんによると、菅野先生は最後に東工大を退官された後、ご出身の陸前高田にお住まいになり、今回の津波で亡くなられた。そのことを39年卒のIn君のツィッターで知った。同窓会名簿で小生がIn君の同期生であることを知り、電話してこられたと言う。In君のツィッターによれば、ご遺体が菅野先生と判明したのは、旧制二高の手ぬぐいを握っておられたからだという。

 あらためて同窓会名簿を探すと、確かに菅野先生は昭和28年東北大卒(旧制)となっているから、旧制第二高等学校の卒業生でもあるのだろう。ちなみにこの年と翌年の29年の同窓生名簿は旧制と新制に別れている。遡ること4年前の昭和24年は大学、高校が新制に切り替わった年で、旧制高校と新制高校の卒業生が入り交じって入学したのだろう。

 In君が憶えているのだから、君も教えてもらったに違いないとKuさんは言うが、記憶にない。代数学がご専門だったそうだから、おそらくその頃数学教室の助手をされていて、淡中忠郎先生の代数学のゼミを取った連中は接触があったのかも知れないが、佐々木重夫先生の位相幾何学ゼミに入っていた小生はまったく記憶がない。不勉強な学生で、単位をもらうための最低限の授業以外、あまり数学教室に顔を出さなかったので、接触がなかったのだろう。

 それにしても、あの突然の大災害に遭われた菅野先生のご遺体が、ほかならぬ旧制二高の手ぬぐいを握りしめておられたのはどういうわけだろう。卒年から考えて、すでに80をかなり過ぎたご年配である。避難される際に、とっさに日頃最も大事にしておられたものを手に持たれたに違いない。そうだとすると、その手ぬぐいを思い出深い大切な品物として、常々身近に置いておられたのだろう。合掌。

 Kuさんには入社前にお世話になった。今で言う内定をもらた後、夏休みに入社前の会社実習を受けた。全国から代々木の日本青年会館(今でもあるのかな?)に集められた入社予定者が、ちりぢりに現場に派遣され、2週間実習を受ける。仮のタイムカードを渡され、生まれて初めての会社勤めである。小生は当時武蔵小杉にあった研究所に配属された。そこでKuさんにお世話になった。当時我が社の研究所には国産第1号のNEAC1101というコンピュータが置いてあって、その操作をKuさんに教えてもらった。パラメトロン計算機で、メモリ数百ワード、入出力機器は紙テープだけ。 もちろん機械語しかない。あらかじめパンチしてあったブートストラップルーチンを最初に読み込ませ、その後、テープにパンチした機械語のプログラムをロードして実行する。外部記憶がないから極単純な内部処理しかできない。まさに計算機の原型である。それでもルンゲクッタ法による簡単な数値計算ぐらい出来た。そのことを電話口でKuさんに話したら、「昔の話だね」と慨嘆された。

 そのとき研究所でもっぱらやらされたのは、当時IBMが売り出していたIBM1401という計算機のマニュアルを読むことだった。もちろん分厚い英語だし、こちらは計算機のことなどまったく知らない。辞書を引いてもコンピュータの専門用語は出てこない。他にやることもなく、お経の文句のようなマニュアルを日がな一日読んでいると、眠たくなってしばしば居眠りをした。後で知ったのだが、当時我が社を含む大手3社が、FONTACというIBM対抗の国産機を共同開発していた。我が社は1401をそっくり真似た前置型小型コンピュータを担当していた。当時の会社には、研究所を含め、ソフトウエアの専門家が一人もいなかった。だから誰も実習生に教えることが出来ず、IBMのマニュアルを読ませておくしかなかったのだ。おそらく研究所の人たちも同じことをしていたのだろう。当時はIBMのマニュアルを読ませるのが最も確かな即戦力教育だったのだ。

 この状態は入社後も続いた。上司にも先輩にもコンピュータ、特にソフトウエアの専門家がいない。せいぜい立川の米軍基地でパンチマシンのオペレータをやった程度の人ぐらいである。プログラマはゼロ。SEなんて言葉も概念もなかった。だから誰も新入社員を教えられない。新入社員が仕事を覚えるには、IBMか、当時提携していたハネウエルのマニュアルを読むしかない。当時は東大を始め、どこの大学でもコンピュータは教えていなかった。教えられる先生がいなかったのだ。日本橋の丸善にも、どこの本屋にも、コンピュータの本など置いてなかった。だからCOBOLもFORTRANもOSもすべて英文のマニュアルで憶えた。入社以前も以降も、会社の中でコンピュータのことを上司に教えてもらった記憶がない。コンピュータのことが何も分からない上司達は、何かあったら恐る恐る新入社員の我々に聞くしかない。新入社員に右と言われたら右、左と言われたら左。そんなつもりはさらさらなくても、さぞ憎たらしい、生意気な部下に見えたことだろう。

 思いがけぬKuさんの電話で、昔のことを思い出した。

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