【伝蔵荘日誌】

2011年4月3日: 非常時の連帯に想う。 GP生

 大阪市消防局は53人の隊員を福島第一原発事故現場に派遣した。 消防隊が事故現場の20Km手前の前進基地からサイレンを鳴らし移動していた時、住民と思われる6人のお年寄りが、腰を90度に曲げ深々とお辞儀をしていた。 これを見た消防隊員は「絶対に何かをお役にたって帰らなければ」と心で思ったとのことだ。 大阪消防局は東京消防庁レスキュー隊員達が孤軍奮闘して国民のために戦っている姿を見て出動を決意したようだ。 参加者全員が事実上の志願であり、本人たちの意思を確認しての職務命令であつたと聞いている。 これ等の行為は同じ消防業務を行う消防士同士の連帯感であり、高レベルの放射能の中、地域住民を守り、強いては国民を守る消防士に対して無言で感謝の気持ちを伝える地域住民との連帯感の表れであろう。

 今震災に際して、被災住民と自衛隊、消防、警察、ボランティア等との強い連帯感による救援、復旧活動が被災地のいたるところで繰り広げられていると思われる。 被災地の住民の連帯意識は際立っているように思われる。 大都会とは異なる地域ゆえに、常日頃から集落単位、町単位で濃密な人間関係が営まれていたからだろう。 最終避難場所も集落単位で移動するようだ。 中国から日本に帰化した中国評論家の石平氏は、日本人が災難に対して冷静沈着さと秩序感覚を失わず、非常時の中でも他人に迷惑をかけない心構えを持っている。現在の中国人に欠けている精神だと論じている。

 救援、復旧に際しての自衛隊と在日米軍との連携も大きな力を発揮しているようだ。 少ない報道で詳細は不明だが、両国軍の連携作戦の統一された指揮司令部はないようだ。 今まで培ってきた両国軍のあんうんの呼吸で推移している様に思える。 米軍兵士が腕に付けている「友」のワッペンは日本人が作り、無償で提供したとのことだ。

 現総理大臣がかって野党時代に日米安保条約について質問を受けた時、「もし、日本が他国から侵略を受けた時には、米国は日本を助ける義務がある」と答えたのを記憶している。 人でも国でも義務だけでは行動しないし、行動しても表面を糊塗する程度だ。 人と人の連帯のない約束ほど虚しいものはない。 常日頃、米国をさんざん批判し、在日米軍の国外退去を声高に叫んだ人間が、困った時に助けてくれと叫べど誰が相手にするものか。 条約は一片の紙切れであるが、それに魂を入れ続ける行為がなければ、同盟国としての連帯感なぞ生まれない。 自衛隊と在日米軍の、現場レベルでの訓練を通じての共同行動や、インド洋で海上自衛隊の過酷な条件での給油活動があったからこそ、果ってないオペレーションに繋がったと思える。 施政者は震災後20日近くなってようやく米軍を含む対策チームを官邸に作る体たらくだ。 しかし、市民運動家上がりの総理大臣と、自衛隊を暴力装置と呼ぶ災害復旧担当者をトップに抱く組織が、はたして連帯感を以て機能するシステムを構築できるか、はなはだ心もとない。

 もし東京で今回のような大災害が発生したどうなるか考えると気持ちが萎える。 自分の住むマンションを考えても、大家を中心とする放射状の繋がりはあるが、横の繋がりは皆無だ。 それ以前に、近隣の日常生活に伴う騒音や振動等の苦情が数多く持ち込まれる。 居住者は自分の生活のみの安寧を求め、隣や上下の関係を慮る人は極めて少ない。 賃貸マンションのみならず、分譲マンションでも、高いコストをかけて手に入れただけに、自己中心的生活態度はさらに大きいように思える。

 阪神大震災時の神戸では、他国が称賛するような日本人の心が発揮されたが、現在の東京ではどうなるのだろうか。 今までの災害では東京は無傷で残ったがゆえに、政府機能も首都機能もとりあえず健全に機能した。 この中心部が壊滅的ダメージを受けたら、これに代りうる組織は日本にはない。 首都機能の分散化を真剣に議論するよい機会だと思う。 我々庶民レベルで出来ることは、それぞれの立場で地域の連帯感をどの様に強めるかを考え、行動することだ。 首都圏が壊滅したら、救援の手は当分来ないと覚悟すべきだ。 この苦境を誰でも一人で乗り越えることは不可能だ。 家族を核とした地域住民の連帯を維持することでしか生き抜くことはできないだろう。

 この大災害を目の当たりにして、自分の周辺にも協力と連帯の必要を感じている人が増えてきている。 心強い思いだ。 3時間停電に脅え、トイレットペーパーを買い占めたり、浄水場の放射性ヨウ素が乳幼児に対する暫定基準を超えたからと言って、大の大人がペットボトルの水を買い占める如きの、近視眼的危機管理感覚では苦境を乗り切る連帯感なぞ生まれない。 高齢者は今まで十分生きた。 しかし、これからの日本を担う子供たちの命と健康こそ第一義に考えなければならないと思う。

 被災地では子供たちのみならず、お年寄りたちに対しても、日本人の優しさが発揮されていた。 研修生と称する中国人労働者を高台に避難させて助け、自分は行方不明となった経営者もいる。 中国ではこの経営者を英雄として報じているようだが、四川大地震の時、学校の教師が生徒をほったらかして逃げる国民性の国では、信じられない思いなのだろう。 恐らく、経営者は日本人なら誰でも行うであろうことを行っただけかもしれない。 かの国の日本人に対する捻じ曲げられた思いが幾らかでも変われば、いまだ行方の知れぬ経営者の魂は救われることになろう。 報道はされないが、震災発生時にこのような無数の行為か為されていたであろうことを想像する。

 戦後民主主義の行き着く先に、極端な個人主義や利己主義が蔓延し、夫婦別姓などとのおぞましい主張が叫ばれてきた。 それが進歩した夫婦関係だとして。 今大震災は人間の頭で考える観念的思考なぞすべて吹き飛ばしてしまった。 被災者を支えたのは人の本能に基づいた、夫婦、家族、兄弟に代表される人間関係と地域の人々の人間関係に他ならない。 新聞やテレビの報道で被災地以外の人達の行動を見ると、戦後民主主義教育で洗脳されていたと思われる人達の中に、日本民族のDNAが残されているように感じた。 関東圏で行われている計画停電も企業や住民の節電努力で中断している。 少々不便であっても、自分さえ良ければよしとするエゴを抑え、国民としての連帯を意識すればできるのだ。 上っ面の繁栄に浮かれ、それこそ湯水のごとく電気を使い、それを補うために原発を増設してきた。 オール電化の家をPRして来た東電も、それを喜んで受け入れた国民も今苦しんでいる。 因果応報は現象界であるこの世の摂理なのだから心しなければならない。

 日本の背骨の産業界には十分電力を供給し、奢侈目的で使われる電力は制限することは、日本の経済構造を変えるかもしれないが必要なことだと思う。 今大災害で目が覚めた日本人の連帯意識は、長きにわたるであろう電力不足の苦難に十分耐えうると信じている。 天皇皇后両陛下が避難所の人達に対して膝をついて語る姿は、日本人の心に深い感動を覚えさせた。 両陛下の姿に国民を想う純粋な気持ちを感じるからだ。 かつての敗戦時には、昭和天皇の存在が日本国民にとって復興エネルギーの源泉であった。 今上天皇を有する日本国民は、他国にない優れた国民性と数多くの困難を克服してきたな歴史を共有している。 日本人は敗戦後の瓦礫の中から復興し、繁栄した社会を築いてきたが、あの時と違って全てが廃墟と化した訳ではない。 日本国民としての連帯感がある限り、いずれより健全な社会を取り戻すと信じている。   

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