【伝蔵荘日誌】

2011年3月23日: 危機とリーダーシップ GP生

 福島第一原発3号機の使用済み核燃料水槽への連続注水を成し遂げた、東京消防庁レスキュー隊の3隊長の記者会見を見た。 高濃度の放射能の中、隊員の被爆を最小限に抑え、機械力を使えない中で、最後は人力で口径150ミリ、50m当たり重量100キロのホースを350m敷設した。 周囲は暗闇、足場はがれきで最悪の状態の中でた。 彼らをそこまで駆り立てたのは、災害に立ち向かい国民の安全を確保するとの使命感であろう。 いくら頭を下げても下げたりない行為だ。



 総理が国民への記者会見の中で、「全身全霊、命がけで対処する」との言を弄した。 現場で国民の安全のため、日本国の破滅を救うために奮闘している自衛隊員・消防隊員・東電社員協力業者、彼らは「命を懸けて」とは言わないだろう。 本当に命がかかった行動をとる時にはそんな言葉は吐けないものだ。 かって規模は全然違うが、坑内災害の現場責任者として危険作業を指揮したとき、部下の命は考えたが、自分の事は考える余裕はなかった。 目に見えぬ放射能に恐怖を感じながら、部下の作業を指揮する隊長達の部下に対する思いはもっと強烈であったろう。 インタビュー時の隊長たちの言葉に思わず涙を流した。

 総理は自身の命がかかっていないからこそ出た言葉であろう。 命がかかっているのは自衛隊、消防隊はじめ現場で懸命の作業をしている人達であって、総理ではないのだ。 日本国の最高責任者が、事が成就出来ない時は、責任を取って自ら命を絶つ覚悟がない限り弄してはいけない言葉だ。 彼にそんな覚悟があるはづがない。 それだけに、現場で奮闘する彼らの自己犠牲を伴う行為は、自分のみならず日本国民全てが、感謝と称賛の想いで息を呑んで見つめているのだと思う。

 会見した三隊長から感じるのは、「連続放水の実施」と言う基本方針を厳しい放射能環境の中、情報不足の現場状況をいかにして克服したか、隊長は部下を信じ、部下は隊長を信じ、見事目的を達した安堵感と部下を死地に行かさなけばならなかった苦悩だった。 三隊長とも自身の被ばくより、部下の被ばくが少ないことを願っていたはずだ。 その証拠に、放射能被爆を計測管理した隊長の被ばく量が27mSvと最も高かったことで分かる。 それでいて、皆、謙虚でおごり高ぶる気持ちはみじんも感じられなかった。 プロフェショナルとしての矜持がそうさせるのだろうが、誰にでもできることではない。 目的達成の結果を伴い、全員無事に基準の被ばく以下にくい止めたチームワークは見事というしかない。 部下が死地同然の場所に敢然として赴くのは、隊長のリーダーシップと日頃の上下間に信頼関係があったればこそだ。 信頼関係の確立は永い研鑽とお互いの努力の結果なのだから、一朝一夕には生じるものではない。

 それにしても、原発事故の一日も早い収束のため、日本国の持てる装備や組織を総動員して機能的に働かせるための、一元的組織を機能させなければならない官邸の体たらくは如何だろう。 12日に原発視察をして現場に負担をかけたのに懲りず、再度激励と称して現場に行きたがったり、東電が自分の言うことを聞かないと言って腹を立て、官邸に帰って職員を怒鳴りつける愚かな男が、危機管理の最高責任者だ。 上に立つ者が自らの感情の発露で壊した信頼関係は、百万弁を弄しても再び取り戻すことなど出来ない。 また一つ官邸機能不全の種を蒔いたようなものだ。

 この最高責任者は現場の自衛隊と消防隊それに東電の間の調整が出来ていないと、立腹したようだが、個別に独立した組織を機能的に働かせることこそ、政治家のリーダーシップだろう。 自分の能力のなさを自覚してかは判らぬが、自民党総裁を復興責任者にしようと画策する。 東日本が壊滅するかもしれぬ、今そこにある危機の瀬戸際で緊急対処するのは、現内閣しかないのが判らないとは呆れてものが言えぬ。 大震災に対して国民にテレビでメッセージを発したが、伏せ目の原稿まる読み。 国家の危機に際してなぜ自分の言葉で国民の一人一人の目を見つめて訴えないのか。

 上が上なら、下も下だ。 通産大臣が連続放水を「言う通りなやらないと処分する」と東京消防庁の幹部にだろうが、恫喝したとの報道を聞き唖然とした。 組織を統括する立場がどうあれ、部下を怒鳴りつけ、権限を振りかざして強圧的言動を執ったら、士気低下のため組織は健全に機能しなくなる。 軽薄なバカ大臣が何を言おうが現場の人間は、危機的状態を知り抜いているからこそ、国民のために黙々と危険な任務を果たしているのだろう。 任務を果たして帰京した消防隊員に涙を流して感謝するぐらいの行動をせずして何が大臣だ。 現場で奮闘を続ける、自衛隊員、消防隊員、東電社員、協力業者数百名が機能的に活動できるよう、物心両面のバックアップをするのが銃後の人間の使命のはずだ。

 福島第一原発の事故処理を見ても政府のどの組織が統括指揮を執っているのか国民には全く見えない。 記者会見にしても、官房長官、原子力保安・安全院、東電と役割分担の積りだろうが、バラバラで統一された意思が感じられない。 原発事故対応の指揮は自衛隊に押し付けた感じだが、東日本全体の災害救援は誰に押し付けるのだろうか。 多分自衛隊が中心であろう。 その責任者が「自衛隊は暴力装置」の発言者だ。 自衛隊は国民国家のために頑張るだろうが、官邸の存在自体が士気低下の震源地になるとは、人災以外の何物でもない。

 大災害は過去の経験を凌駕して生ずるようだ。だから、国民にとって皆初めての経験となる。 阪神淡路大震災時に、対応の遅れを批判された時の総理が「なにせ初めての経験じゃから」とノタマッタ。 誰でも初めて経験する大災害を目にしたときは茫然自失とするのは当然だが、国家指導者が茫然自失では困るのは国民だ。 リーダーたる資格無き無能な政治家が国のトップに鎮座している時を狙ったように、大震災が発生するのは偶然だろうか。

 被災地の知事、市長、町長、村長等地方自治体は涙ぐましい努力をしている。 自治体組織が消滅してしまって、残された職員が懸命に頑張っているところさえある。 涙なしには見られない惨状だ。 それでも残された力を振り絞って、決して諦めていない。 これら組織の責任者は「命を懸けて頑張る」などと取材の記者には言わない。 住民のためにやれることをやるしかないことを知っているからだ。 被害地以外の自治体も一般国民も救援・復旧に出来る力を振り絞っているように思える。 絶望感など感じられない。 素晴らしい国民性はまさに大和魂そのものだ。 被災地の瓦礫を取り除き、新たな街並みが復興される日は必ず来ると信じる。 今直ちには無理だろうが、瓦礫同然の政治家を取り除かなければ、被災地の人達や原発避難者が救われない。

 破滅の危機から日本を救えるのは福島第一原発で必至の努力をしている現場の人達しかいない。 現場の労苦が報われることが、日本が破滅から救われることになる。 涙なしに現場の労苦に思いを致すことはできないが、その苦労が日本救済の結果で報われることを願うのみだ。 将来原発危機を乗り越え、何処が危機回避のターニングポイントになったかを考えた時、東京消防庁レスキュー隊の連続送水にあったと言われるであろうことを信じている  

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