【伝蔵荘日誌】

2011年3月5日: 老後を迎える覚悟 GP生

 近隣の80歳の商店主が逝去された。 自分の家の前にあるマンションのオーナーであり、町でも1、2を競う食肉店を経営している。 数年前に脳梗塞を発症したのを機会に店の経営を長男に譲っていた。 何年か前から介護施設でのデイケア―を利用していたので、送迎車を待つ姿を毎日見ていたし挨拶も交わしていた。 最初のころは杖をついていたが、いつの間にか車椅子になっていた。 昨年末に足を骨折し、更に脳梗塞を発症して脳神経外科に入院した。 その後、腎不全をおこし逝去された。 介護は奥さんと長男のお嫁さん、それに未婚の娘さんが行っていた様だ。 経済的にもゆとりがあり、家庭内で複数の介護人がいる体制は、どちらかと言えば恵まれた環境と言えるだろう。

 自分の経験でも、父親の6年間の介護は母と自分たち夫婦、それに息子たちの協力で乗り切った。 認知症の母の三年間の介護は、自分たち夫婦と外部の介護士たちの協力を得て頑張り通した。 特に寝たきりの母親の介護生活は、明日が見えないだけ大変苦しく辛い思いであった。 頑張れたのは、長男が面倒みずして誰がみるとの思いがあったからだと思っている。 母の葬儀を終えた後の虚脱感を今でも忘れられない。

 当時、自分もまだ50代から60代前半の肉体的若さがあったから何とかなったのだが、今あの時と同じ事をもう一度やれと言われたら自信はない。 もし、息子や娘がいなかったり、いても遠方で生活していたら、更に子供たちとの折り合いが悪かったり、年寄りに経済力がなく、子供たちも親を援助する力がなかったとしたら、病に倒れた高齢者は極めて厳しい状態に置かれる。 自分の知人に70代の夫婦がいる。 ご主人は昨年、心筋梗塞の手術をした上、糖尿病を患っており、認知症も少々入っている。 3人の子供たちは独立しているが、皆自分達の生活の維持にいっぱいで親を援助する力はない。 幸い奥さんが頑健で病気ひとつしないため、年金収入を補うため介護の傍らパートで働いている。 老々介護の典型だが、奥さんが倒れたらどうするのだろうかと、他人事ながら心配している。

 昨年末、近隣の79歳の女性が脳梗塞で倒れた。 ご主人は健在で、二人の息子さんはそれぞれの家族と共に同じ敷地内にある彼女の所有する家作に居住している。 バックアップ体制は万全なのだが、アパートの管理から家庭内の全てと息子たち家族との関係維持等を彼女がすべてコントロールとていた。

 一族全てを統括していた人が倒れ、まともな会話もままならない状態では、人と経済が伴ってもパイロット不在の航空機同然の状態となる。 老後の状態は十人十色で、置かれた環境や状況はすべて異なるが、次世代の息子・娘や孫達の協力に多くを期待できない傾向は益々大きくなると思われる。 親子であれ夫婦であれ介護の主体は高齢者とならざるを得ないだろう。 自分たち夫婦を考えてみても、もし自分が要介護の状態になったとしたら、妻の体力では間違いなく一週間も保たずダウンするは必定だ。 子供夫婦は極近隣に居住するが彼らの生活の安寧はメチャメチャになるだろう。 この状態は自分がこの世を去るまで継続することになる。 その上、自分がしている家業の管理運営まで加わるのだから、家族の苦労は想像以上だろう。

 逆に、妻が要介護の状態になったとしたら、家庭生活の安定はひとえに自分の肉体的健康にかかってくる。 現在ならばともかく、5年、10年先のことになると「大丈夫、俺に任せろ」と言い切る自信はない。 残念ながら最後は息子たち夫婦に依存せざるを得ない。 自分がした介護の苦労を息子たちに味あわせるのは忍びないが、人がこの世で生きそして死んでゆくのに順番がある。 息子たちもいずれ彼らの子供たちに託さざるを得ないのだから頑張ってもらうしかない。 息子たちは自分の親が介護をしている姿を見ているし、孫たちが自分たちの親の介護努力を見分することは、親子の絆が連なっている証でもあろう。

 そうは言っても、自分たち夫婦が多少のトラブルはありながら、肉体がその役目を終える時まで健康で日常生活を送れるなら、子供たちに負担を強いる期間は極めて短いものになる。 高齢者の健康管理は高齢者自身だけでなく、周囲の家族や肉親にまで影響することになる。 勝手気ままに生きてきて妻子に苦労をかけ続けた男が、いざ倒れて「面倒をみてくれ」との状態になったら、腹は立っても面倒をみざるを得ないのが家族である。 誠にもって、どちらにとっても不幸な状態となる。 就職、結婚、出産、子供の教育と躾、夫婦の関係、家庭生活等々、人が成人してから今に至るまでの生き方や人間関係全てが複雑に絡み合って、高齢期を迎えた時の在り方が方向づけられる。 たとえ過去の過ちを現在に至って悔いても、運命も人生も変わらない。あの時ああすれば、こう実行すればとの悔いは誰しも持っていると思う。 責任は全て自分の生き方にあるにしても、高齢期に突きつけられる結果を思うと、体力気力とも衰えているだけに、本当に厳しい人生修行と言わねばならない。

 最近、70歳の息子が認知症の92歳の母親を殺し、自分も自殺しようとしたとの報道があった。 詳しいことは判らないが、70歳の息子が孤立感と絶望感に苛まれていただろうとは推測がつく。 戦前の家族制度が壊わされ、核家族化の深化のみならず夫婦別姓などという、おぞましい法律まで検討されている。 家族で助け合う日本の良き風習が希薄になりつつある中、日本人の寿命は著しく延びた。 寿命の延びと共に要介護高齢者の数も増加することになる。 日常の立ち振る舞いを独力でできなければ、寿命だけが延びても、何のための人生ぞと言える。 人生は50年で、家族の絆が今より遥かに強く、家督相続が保障されていた時代では、高齢者介護が社会問題になることはなかった。

 今の時代、寿命の著しい延びによって惹起される問題を、家族だけでは吸収出来なくなってきている。 身寄りのない高齢者や、身寄りはあっても頼れない高齢者は社会で面倒見ざるを得ない。 少子高齢化社会の進む中で、このままでは限界を迎えることは必至だ。 高齢者の寿命を延ばすための医療や介護システムが、この先どこまで維持できるのだろうか。 現在ですら独居老人の孤独死が問題になっているのだから、10年、20年先を考えると空恐ろしい気持ちになる。 高齢者にとっては社会全体の問題より、自分たちの今後がどうなるかのほうが、より重要な問題だろう。

 自分自身のことを考えても、元気な内に子供たちとの関係を含め、家庭内での種々の準備に時間をかける必要があるだろう。 経済の問題も極めて重要だ。 これもまた、備えあれば憂い無しを心掛けなければならないと思っている。 昔から「色心不二」との言葉がある。 「色」は目に見える物、即ち現象界の事だが、ここでは「肉体」を指す。「心」は本当の自分である「魂」のことだから、これら二つはそれぞれ別々に在るのではなく、一体となって「人」が存在しているとの意味であろう。 高齢になるにつれ将来に望みを持つことも、積極的に生きる意欲も減退しがちになる。 色心一体であるが故に心の衰えは直ちに肉体の衰えに繋がる。

 肉体の衰えや病の発症となれば、更に、心を萎えさせる悪循環に陥ることになる。 高齢者は誰しも身体に対するケアーを真剣に考え実行していると思うが、身体以上に心の在り方は大事なことだ。 これとて他力本願でなく、自力でなければ心の本当の安寧は得られない。 例え経済に恵まれ、子供たちや孫に囲まれていても、心乱れれば充足感は生まれない。 病のために自身の肉体に望みを持てなければ、自ら命を絶つことも在るだろう。 心は身の王であり肉体はその乗り船なのだから、この世では色心不二を自覚して、いずれも大切に磨かなければならないと思っている。

 現役サラ―リーマンを退職しても、生ある限り人生の退役はない。 心身が衰え易い老境を迎え、生きる意欲と目的を失わぬ事は容易ではないであろう。 輪廻転生のサイクルの中で、人は現世で生きる目的を自覚して誕生するが、生まれると同時に目的は潜在意識の中に仕舞われてしまうと言われている。 その後人生経験を重ねるにつれて、少しずつ潜在意識の中から顕在化されるそうだが、自分を含め現世での目的が何であるかを自覚出来ない人が殆んどであろう。 「人生の目的とは、人生の目的を見つけることである」との言葉もある。 天に呼ぶも天は声なく、地に訴えるも地は答えずの通り、人生は自分でしか答えを見つけることは出来ない。 苦労と悩みの尽きないこの世ではあるが、介護無用の高齢者生活を送り自己完結したいものだ。   

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