伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2011年3月1日: オンカロ 核廃棄10万年の危機 T.G.

 早いものでもう3月だ。 冥土の旅の一里塚が次々に通り過ぎていく。

 先日、BS放送で「地上深く、永遠に。 核廃棄物10万年の危機」というタイトルのドキュメンタリーを見た。北欧フィンランドが世界に先駆け建設を始めた、オンカロと言う名称の核廃棄物最終処分場の話である。プロジェクト関係者が10万年先という「永遠」とほぼ同義の遠い未来についてあれこれ思い悩む、いささか浮世離れした内容なのだが、思いも掛けぬユニーク、かつ真剣な議論に、つい引き込まれて見てしまった。

 「オンカロ」とはフィンランド語で「隠し場所」を意味するそうで、深さ500mの岩盤層をくりぬいて作った洞窟に、国内の原発から排出される核廃棄物を貯蔵し、満パンが予想される約100年後に、入口を完全封鎖するのだという。すでに立地や安全性についての科学的検討は終了し、建設が始まっている。議会での関連法規や行政手続きも終了している。そう言う意味では、どこにでもある何の変哲もないテーマである。

 主たる廃棄物は使用済み核燃料、すなわちウランとプルトニュウムである。強い放射能の半減期は10万年。ほぼ半永久になくならない。漏れ出したりすれば、甚大な環境破壊が起きる。しかし地下深く固い岩盤をくりぬいて、腐食性の高い銅で覆った分厚い鋼鉄製容器に納められた廃棄物が、万が一にも漏れだしたりはしない。そのことは科学的に十分検証されている。事故による漏洩はプロジェクトでも問題にしていない。にもかかわらず、このプロジェクトの関係者の間で、いまだに将来の安全性について深刻な議論が交わされている。関係者の懸念は100年、200年後の近未来の話ではなく、数千年、数万年後の心配なのだ。その頃は今の人類が生きながらえているかどうかも分からない遠い未来だ。

 放射能半減期の約10万年間、オンカロの安全性は保たれるのか。固い岩盤と鋼鉄製容器で守られた廃棄物が漏れ出す危険はない。しかし数千年、数万年後の未来の人間、もしくはそれに代わる知的生物(プロジェクトはそこまで想定している!)が、知らずに開けてしまうことはないのか。その結果未来の人類、知的生物に害が及ぶことはないのか。そう言う遠い遠い未来の出来事を、プロジェクト関係者(科学者、工事責任者、政治家)がそれぞれ真剣にあれこれ思い悩む。いくら議論しても安心できる解は見つからない。ドキュメンタリーでは地下深い工事現場の映像が終始流される。その映像をバックに、関係者の間で交わされる議論、懸念、問題提起が実にユニークで新鮮ある。

 例えば、きちんとした目印(マーカー)を置いて、科学的説明と警告を残しておけば大丈夫という、誰もが考えそうな意見が出る。実際にプロジェクトではそうする計画だという。後世の人たちは今より進んだ文明、科学を持っているから何も心配することはない、と言う楽観論に立っている。確かに数百年のスパンだったらそうだろう。しかしここで問題になっているのはそんな近未来の話ではない。少なくとも数千年後、下手をすると数万年後の事なのだ。遠い未来の人類がそう言う知性を持った生物である保証はない。

 オンカロ関係者は誰もがひどくペシミスティックである。彼らは今の文明が継続されるのはたかだか数百年と見ている。下手をすれば来世紀頃には、暴動、世界大戦、気候変動など、地球規模の大災害により、今の文明が滅びている可能性が大いにある、と感じている。そう言う想定でプロジェクトを遂行すべきと考えている。想定の根拠は曖昧だが、十分あり得ることだ。今の文明だってたかだか2、3千年で出来上がったものだ。地球規模の核戦争でも起きれば、あっという間に滅びる。文明が滅びれば、人類の知的水準も低下する。いくら目印を付け、説明書きを残しても、そのころの退化した人類が理解できるかどうか分からない。さあどうするか。

 そんなことも理解できないほど退化した人類が、固い岩盤を500mも掘り下げられるわけがない。だから心配することはないと言う意見が出される。それに対し、ろくな掘削技術もなかった600年前のスエーデンで、坑道を600m掘り下げた事例がある、と言う反論が出される。人類は好奇心の強い生物だから安心は出来ない。好奇心に駆られた人間が、思いもよらぬ、とんでもないことをやらかした事例は、古今東西山ほどある。だから安心はできない。

 目印と言っても、何をどうやって残すのか。ピラミッドのような巨大建造物でもない限り、小さな石碑やマーカーでは数百年後でさえ残っているかどうか分からない。ましてや1万年後に次の氷河期が訪れたら、そんな物は跡形もなく消えてしまうだろう。警告、説明と言っても、石碑やマーカーに、何をどういう言語で書くのか。文明が退化した未来の人類は、英語もアラビア語も中国語も解さないだろう。今の人類でさえ、たかだか三千年前のエジプト王朝の古代文字を解読するのに百年もかかった。いまだに解読できない部分がたくさん残っている。

 プロジェクトでは一応警告用の巨大マーカーのほか、各国公用語で記述した警告文、説明書を収める文書庫を現場に建設する計画だという。しかし、説明書と言っても何に記録するのか。紙はせいぜい数百年しか保たないし、コンピュータやCDやDVDは論外だ。金属製の板に彫り込んだとしても、数万年後には腐食しているだろう。だから何をやっても、とりあえずの気休めに過ぎないと、関係者は内心思いはじめている。

 未来の人類、もしくは知的生物は、知性や言語能力を持たないかも知れない。そのことを想定して、文字ではなく、危険を視覚に訴える方法も検討されている。例えば、いかにも恐ろしそうなまがまがしい彫刻、絵画。ここは危険だ、近づくなと言う普遍的表現である。候補として、有名なムンクの「叫び」が真面目に取り上げられている。でも、そんなものを見せたら、かえって興味を抱かせてやぶ蛇に終わらないかと心配は尽きない。

 そう言ったもろもろの対策は、結局何の意味も持ちそうにないから、とにかくありとあらゆる方法で「忘れさせる」ことに集中すべき、という意見も有力である。目印なんてとんでもない話で、オンカロ周囲の一切の痕跡を消し去り、工事記録も何もかも残さず、とにかく忘れさせる。これがベストだという意見だ。言われてみるとなかなか説得力がある。

 問題は忘れさせる有効で積極的な方法が見つからないことだ。痕跡を消し、関係者が口をつぐんで黙っているしか手ががない。でも秘密を隠し通すのはこの世で一番難しいことである。隠し通したはずのエジプト王家の墓はすべて曝かれてしまった。厳重に封印された廃棄物を、未来の人類は宝物と勘違いするかも知れない。結局最後は、誰にも見つからないよう、曝かれないよう、神に祈るしかない。それがプロジェクト関係者の最終結論でもあるようにも見える。

 それにしても羨ましい。核廃棄物対策についてこういう哲学的とも言えるハイレベルな思索や議論が出来るのは、北ヨーロッパが世界で最も洗練された高度な文明に達した地域だからだろう。日本でも六ヶ所村など、使用済み核燃料対策が問題になっているが、広島長崎うんぬんの、百年一日のごとき、相も変わらぬ核ヒステリーに振り回されて、思考停止。まともな議論にならない。ましてや1万年後の心配など、思いつきもしない。

 化石燃料は間もなく枯渇する。太陽光発電や風力発電は発電量が小さすぎて屁の突っ張りにもならない。近未来の世界は核エネルギーに頼るしかない。それもウランを掘り尽くすまでのたかだか百年ぐらいの話だが。

 成長を続ける中国、インドなど発展途上国では、エネルギー需要増大に合わせ、原発を日に3基作らねばならない計算だと言う。後進地域におびただしい数の原発がばらまかれる。原発の耐用年数はたかだか4〜50年である。インド、中国のような文明程度の低い国では、使用済みの原発や核燃料に、フィンランドのような周到な議論や対策はなされないだろう。寿命が尽きたら、チェルノブイリのようにコンクリートで蓋するぐらいせいぜいだろう。ましてや1万年後のことなど一笑に付されるだろう。考えてみれば恐ろしい話である。チェルノブイリだらけの地球。1万年後でなく、100年後に間違いなく訪れる悪夢だ。

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