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             【伝蔵荘日誌】

2011年2月22日: 今年度芥川賞受賞作品を読む。 T.G.

 ご近所の愛書堂へ文藝春秋を買いに行く。今月号は芥川賞受賞作品が掲載されているので、いつもより百円高い860円。今年の芥川賞は朝吹真理子氏の「きことわ」と、西村賢太氏の「苦役列車」の2作品同時受賞である。よほどの優劣つけがたい傑作なのか、はたまた文春一流のたくらみなのか。いずれにしろ大盤振る舞いには違いない。さっそく読んでみた。

 テレビで受賞時の記者会見を見たが、朝吹氏は黒髪に胸の開いた黒い細身のドレス、女学生のような楚々とした容姿。口に手を当てて「オホホ」と上品に笑う様なんか、いかにも深窓のご令嬢という雰囲気である。今時はこんなイイトコのお嬢さんでも純文学をやるのかかと、つい思ってしまう。事実経歴を見ると、フランス文学者を父に持つそうそうたる家系のお嬢さん。現在慶応大学の大学院生というから、ほんまものの女学生だ。

 方や西村賢太氏。よれよれの革ジャンに無精髭、中年太りのいかにもむさ苦しいオッサン風で、記者会見に出てくるなり、「やることないので風俗へ行こうと思っていたら電話がかかってきて…」などと、のっけから偽悪的発言で記者を煙に巻く。経歴は中卒で、若い頃は日雇いで暮らしていた。父親が性犯罪を犯し、自らも逮捕歴があると言うから、近頃珍しい無頼派作家である。マスコミはこの対照的な二人が並んだ記者会見を、芥川賞の美女と野獣コンビと面白可笑しく報道した。このときの対照的でユニークな両者の物言いが話題になり、文春も受賞作品も売れ行き好調という。このあたりが文春一流の文芸ジャーナリズムの巧妙さ、いやらしさでもあろう。

 さて、朝吹真理子氏「きことわ」である。変な日本語タイトルと思いきや、二人の女性主人公の名前、「貴子」と「永遠子」を連ねたものだという。題名からしていかにも今時の少女小説風だ。内容は、25年の時を隔てて再会する、二人の女性主人公の一日を描いている。のっけの書き出しが、「永遠子は夢を見る。 貴子は見ない。」で始まるように、二人の女性の過去と現在が夢をまじえて語られる。少女時代の過去の記憶と現在に、二人が時々に見る夢の中の風景や出来事が脈絡なく織り交ぜられる。過去と現在と夢が、時系列を無視して行きつ戻りつ、境目のない描写で現れるので、読み始めはいささか頭が混乱するが、慣れるにつれ作者の意図する記述様式が分かって読みやすくなる。文章的には夢と現実の織りなす綾が、色彩豊かな抽象画のように美しい。時間軸を無視した夢と現実の繰り返しを、破綻なく描写する文章テクニックはなかなかのものだ。作者の狙いはそこにあるように見える。夢と現実を思いつくままだらだら書き並べているように見えながら、映画のシナリオのように計算し尽くされた文章配置である。芸術性は二の次にして、テクニックを見せびらかす、腕自慢の絵描きを見ているようだ

 それに反して、ストーリーや心理描写には重きを置かれていない。というか、ほとんどどうでもいい。書かれる対象も、葉山の別荘とか、外科医の娘とか、チェスの入門書とか、車は64年式シトローエンDSなどなど、若い女性好みではあろうが、およそ生活感がない。絵画的効果を狙った文体もそれなりの効果は上げているが、時折こなれない表現が出てきて違和感を感じる。文章が上手いのか下手なのかよく分からない。選者の一人、川上弘美氏も、「「情けない顔をうかべた…」とか、「ベビーカーを押す若い女性、手をつなぎあう母子のすがたが目にはいる」など、どれも絶対に駄目とは言わないが、言葉の粒立ちに重きを置く作風なら、大きな疵になる」と評している。同感だ。もう一つ気になるのは、「いまとなってはたしかめようのない記憶…」とか「ひとのすがたをみとめた。」のような仮名表現の多用である。美的効果を狙った意図的な文章テクニックのつもりなのだろうが、それにしては徹底されていない。ごく当たり前に漢字表現している部分も多い。文章の美的効果より、幼稚さ、あざとさが前に出るから、これはやめた方がいい。この作家の才能が言葉の粒立ちや文章の美的表現力にあるとするなら、そのテクニックで次は何を書くか、そのテーマ選びが肝要になるだろう。内容は二の次で、文章を蝶のようにただひらひら舞わせて見せるだけでは文学にならない。

 続いて「苦役列車」である。ジャンルとしては日本文学伝統の私小説だ。貧乏で無学な19歳の若者の、日雇い労働に明け暮れる、明日も見えない、自堕落で惨めで無様な日常が、これでもかと赤裸々に綴られる。赤裸々すぎて読み始めはいささか辛い。なにしろ書き出しが、「目が覚めるとまず廊下の突き当たりの年百年中糞臭い共同後架へ立ってゆき、…パンパンに朝勃した硬い竿に指で無理やり角度をつけ、小便をする」ところから始まるのだから。「永遠子は夢を見た」のお嬢さん趣味とは大違いである。二作を続けて読むと、その落差で頭がくらくらするほどだ。作者の言によれば、書かれていることのほとんどが西村氏自身の若い頃の生活そのものなのだと言う。そう言う意味で、自伝的私小説といえる。

 西村氏が文学を志すようになったのは、日雇い暮らしに明け暮れた20歳前後。当時ブームだった横溝正史の推理小説を読み漁るうちに、戦中、戦後初期の無頼派私小説家、田中英光に興味を抱き、以来、私小説の神様、葛西善蔵や壇一雄などを読み漁った時期だという。骨の髄まで私小説が染みついているのだろう。当然ながら作風は、「自分の恥をさらけ出して書く」ことだそうで、お嬢様趣味の、きれい事の極地のような朝吹文学とは対極にある。それにしても、風俗へ行った場面で、「先の糞腸淫売の股ぐらより、無様にビロンとはみ出していた黒い襤褸切れみたいなものを思い起こして…」とか、「股間からうっすら大便の異臭が漂ってくるのはさすがの彼も辟易し…」などなど、いかにも汚らしい、直裁的な描写を頻発されると、そこまでやらなくてもいいじゃないかと、読んでいるこちらが辟易する。

 それだけに読後感は、きれい事に過ぎる「きことわ」とは違い、なにかしら生き身の生活感、存在感がある。文章も、洗練とか華麗とか巧みなどと言う次元とはほど遠いが、少し長めのフレーズを句読点でテンポよくつなぐ文体が、重戦車があたり構わずのしのし押し進むようで、読み進めるうちに心地よく感じるのは不思議だ。しかしながら、「進路のためになぞいった向上心…」とか、「はな、先方が発した言葉は…」、「いざとなれば結句はまた開き直って…」などと言う聞き慣れない文章表現がたびたび出てくるのは何なのだろう。単なる誤用か、無頼派の意図的レトリックなのか、判然としない。作者の読書量、読書歴から見て、後者だと思いたい。それにしても、作者自身の人生経験に基づいた悩み、懊悩をテーマにする私小説は、いずれ題材が尽きるだろう。一人の人間の宇宙はそれほど多岐にわたるものではないから。この作者の他の作品は読んだことがないが、自分自身を語り尽くした後はどうするのだろう。何を書くのだろう。私小説家の宿命ではあるが、朝吹女史とは違った意味で、興味がある。

 いずれにしろ、今回の2作品はここ10年の芥川賞作品にはない手応えが感じられた。朝吹氏の華麗な文体の“少女小説”が、この先どのように化けるか。大人の小説に脱皮できるのか。はたまた、「今や文芸の王道ではない、冷笑に囲まれた私小説の一本道を、これからも歩み続ける」と言う西村氏が、自らの懊悩を、傷口に塩を擦り込むようにとことん書き続けるのか。大いに興味がある。自分の好みとしては、どちらかと言えば西村氏の無頼派私小説に一票投じたい。でもこの作風だと、まず女子供は読まないだろうな。つまり売れないだろうな。そこが私小説の真骨頂ではあるのだが。

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