【伝蔵荘日誌】

2010年12月27日: 医者をどこまで信用するか。 GP生

 昨今の気温の急変化は過去に経験したことがないほどの激しさである。 高齢者には体に応える急上昇、急降下だ。 最近、母の代からお付き合いのある79歳の女性が、脳梗塞で自宅で倒れた。 この冬一番の寒さと報じられた日であった。 たまたま会社を休んでいた息子さんが発見し、近くの脳外科に救急車で搬送し事なきを得たが、それでも約10日近くのICU治療を余儀なくされたようだ。 いまだ意識の乱れを含む身体不調の後遺症が出ているとのこと。

 この女性は常日頃健康管理には注意していて、今まで病気一つせず元気に日常生活を送っていた。 近くのO医院で定期的に検査を受けていて、倒れる前日に「血液サラサラで問題なし」のお墨付きをもらっていた。 骨粗鬆症の心配があるからと言われ、O医院で定期的にカルシュウム注射を打っていた。

 カルシュウムのみならず、ミネラル摂取の許容範囲はビタミンに比べ極めて狭く、突出したミネラル摂取が重大な身体的トラブルを発症することは、医者であれば常識の範囲に属することだ。 また、「骨粗鬆症=カルシュウム不足」とは、医者にしては短絡的に過ぎる。 確かに女性ホルモンのバランスの乱れやカルシュウム摂取量の低下によって、骨密度が下がることは事実である。 しかしながら骨細胞は日々破壊と再生の代謝を繰り返して動的平衡を保っている。 骨はタンパク質の一種であるコラーゲンのネットワークにカルシュウムが結合して造られる。 だからタンパク質の接取を怠っていると、カルシュウム剤を注入しても骨には吸収されず、血管内を駆け巡ることになる。 その一部は脂質等と結合して血管壁に沈着することも有り得る。 これが脳梗塞の一因だったとすれば、医者の責任は大きい。 証明されることはないであろうが。

 骨粗鬆症対策はカルシュウムの注入ではなく、小魚類の丸ごと食取を勧めるのが本当の医者であろう。 これならタンパク質も同時に摂取出来るのだから。 ただし、医者には一銭の収入にもならない。 女性が通っていたO医院はとかく検査を勧めるので有名な病院で、自分の妻も一回受診したことがあるが、あとはお断りした。

 妻は本来消化器系が弱く、6年ぐらい前から胃酸の逆流に時々悩まされいてた。 「パリエット」という名の薬がある。 これは胃酸の産生過程にある酵素の働きをブロックする作用を持つ強力な抗酸性剤だ。 近くのSクリニックで処方された。 医者には「一生飲み続ける必要がある」と指示された。 胃酸の産生が弱まれば、食べ物の消化に影響が出るので、同時に消化剤を処方された。 妻は2年近くこれらの薬を続けた。 胃酸の逆流は間違いなく止まったが、消化能力の低下から食材が制限され、かつ副作用のため活力が低下してきて、慢性的な体調不良に悩まされ続けた。

 現在は他の病院に替えているが、そこでも「一生飲み続けること」を言われた。 色々の思考の中で、妻の胃酸逆流はストレス性のものであろうと考え、医者の指示を無視し、パリエットの服用を計画的に減らし、停止した。 完全にやめた後の反動は強烈であったか、何とか乗り切った。 最近読んだ「医師からもらった薬が解る本」によれば、パリエットは3週間ほど処方してから様子を見ることとある。 本来年単位で飲む薬ではなかったのだ。 現在妻は胃酸の逆流はほとんどないが、長年のパリエットの使用で胃酸産生は健常者のそれではなく、未だ食材は制限されている。 これも「胃酸の逆流=胃酸産生停止」と言う単純思考のマニュアル的判断の被害であろう。

 人体は複雑な精密機械に似ていて、代謝による「生産と破壊」の動的平衡で維持されている。 現代医学は、検査技術や外科的治療、さらには細菌やウィルス性病原菌由来の病気の治療については確かに目を見張る進歩がある。 たたし、生活習慣病といわれる病に対してはそうではない。 身体の部品たる臓器しか視野にない治療では、無力どころか発病の原因を作っているとしか思えない。 これに医術ならぬ医者の算術が加わると、79歳女性のような結果になりかねない。 医者の診断とアドバイスを100パーセント信じたことによる、取り返しのつかない悲劇といえる。

 生活習慣病の治癒はそれぞれの人体が有する自然治癒力に依るしかなく、医者は専門知識を用いたアドバイザー的役割に徹するべきだ。 しかしそのような医者は少数派で、身近にいる開業医はマニュアル的治療が圧倒的に多い。 かって離島の鉱山で社宅生活をしていた時、子供が発病すると2キロ離れた部落の「小茂田診療所」に連れて行くのが常であった。 検査設備はほとんどなく高齢の医師が全てを診療していた。 彼の武器は聴診器1本である。 長年の経験から投薬の必要がなければ、家庭で出来る手当ての方法を懇切丁寧に教えてくれた。 現在の医師は検査結果が出なければ治療をしないことが多い。 やたらと多くの薬を処方するのは、万が一の事態に備えての免罪符作りのような感じさえする。 幸い自分は医者や薬と縁のない生活をしているが、今後加齢とともにこれらにお世話にならない保証はない。 身近に専門的にアドバイスしてくれる良心的医師を探す努力が必要である。 「主治医は自分」であるためには学習が必要だ。 しかし三石先生の「日々学習者たれ」は、言うは易く行うは難しだ。   

目次に戻る