【伝蔵荘日誌】

2010年11月19日: 自殺について考える。 GP生

 妙に寝られず、米焼酎を飲みながらぼんやりしていたら、学生時代、鉱山工学科の瀬峰寮で暮らした同窓のM、K両君のことを思い出した。 またワンゲル仲間の亡きIk、Ii両君のこともつらい想いとして思い出された。 瀬峰寮の同学年ただ一人の生き残りとしてその思いを書いてみる。

 般若心経は宗派に関係なく読まれている経典である。 その中に有名な一節に「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」とある。 この「空」と「色」の解釈にいろいろあるが、自分は日本で「正法」を広め48歳で逝去された高橋信次先生の説を採りたい。 先生によれば、色とは目に見えるもの、即ち現世であり、空とは目に見えないけれど確実に存在する実存界、すなわちあの世を意味する。 従って、この16文字の意味は「現世とあの世は異ならない。 あの世と現世は異ならない。 現世即ちあの世であり、あの世は即ち現世である」と言う意味になる。 これは現世とあの世は一体として存在し、肉体を離れた魂は、あの世とこの世を転生して生き続け、終りが無いことを意味している。 あの世の存在は現在の科学では証明はできていないが、科学で証明できなければ存在しないという考えには与しない。 将来的には科学的証明が可能かもしれないが、現在はその段階にないと考えるほうが妥当だ。

 あの世については数多くの臨死体験者の実例が語られている。 面白いことにあの世の状態が人によって異なっていることだ。 生前の心の在り様が死後に魂が生活する場を決めるのだから、臨死体験から生還した時に見てきた世界がそれぞれ違うのは当然のことだろう。 自殺は、一部の例外を除いて、ほとんどが現状の苦しみや悩みから逃れるための手段だろう。 自ら命を絶ち、死んで楽になりたいとの思いによるものだろう。 自ら死して本当に楽になれるのなら、悩みの解決手段として意味ある行為と言えようが、そうではないらしい。 先に記した様に、この世とあの世が一体である以上、死した人の魂はあの世で存在し、且つこの世での悩みや苦しみをそのまま持ち続ける。 自らが苦しみや悩みを解決するまで、狭く暗い穴倉のような世界で存在し続けなればならない。 暗い心や魂は容易に同通する。 苦しさに耐え兼ねて、現世で苦しむ同類に助けを求め、手を伸ばすことになる。 全国にある自殺の名所や、我が家の近くのJR中央線のN駅など、地縛霊となった成仏できない自殺者の呼び込みが絶えない。

 人は、天上界の近親者や仲間から祝福されながら生まれる。 生まれた世で何をなすべきかと言う使命感を持って誕生する。 しかし誕生と同時に前世の意識は潜在意識の中にしまわれてしまう。 成長するにしたがい、その潜在意識が少しすずつ顕在化するものの、せいぜい10パーセント程度が限度のようだ。 天才と呼ばれる人は、幼少にして前世で身に付けた技能・知識を顕在化させたことになる。 だからこそ、この世に目的をもって誕生しながら、人生を全うすることなく、自ら人生を終了させることは最大の悪なのだ。 その悪ゆえ、あの世で苦しむことになる。 人は肉体だけの存在で、肉体が死すれば全ては無、と考える人が身の回りにもいる。 だから生きているときだけが大事だと、ただがむしゃらに生きている。

 人の肉体はこの世で生きるための魂の乗り船であり、この船をいたわりいつくしみながら生きる。 たとえ意識しなくても、潜在意識の中に存在するであろう自分の人生目的を探りつつ、一生懸命生活を続けているのが普通の人だ。 最近の小学生の自殺は何とも痛ましい限りである。 肝心の学校責任者である校長は逃げの一手の責任回避をするし、校長の上りポストである教育委員会の委員達も同様だ。 教師は子供たちに知識を教えることだけでなく、生きていくことの尊さや意味を教える責任がある。 彼らは成すべきことをせず、その結果生じた事態の責任を回避した。 彼らは自身の行為を反省し、それを行動であらわさない限り、死後にそれぞれ報いを受けることになろう。 彼らは現世とあの世が一体の存在であることを知らない。 目の前の悩みを回避するのに汲々ととする。 教育者の資格なぞありはしない哀れな人達だ。

 また、法律論的詭弁を弄し、自らを正当化して保身を図る仙谷官房長官は、国家をも自殺させかねない。 自身の利益のために国を危うくさせ、国を案ずる国民の想いに一顧だにもしない。自ら反省し、自らの過ちを修正しない限り、彼の死後は地獄界で苦しみが待ち受ける。 それが現世とあの世との間の厳然たるルールなのだ。 彼が受けるであろうあの世での苦しみは自業自得としても、勝手に国を滅ぼされた国民はたまらない。 死後の世界では、人の意識は90パーセント顕在化するという。 彼らは死後に開かれた意識の中で生前の行動を苦しみながら反省させられることになろう。 人が過ちの多い言動をとるのは、潜在意識が開かれず、いわば盲目状態で現世を生きなければならないところにある。 だからこそ過ちは反省して正していかなければならない。 死後につらい反省が待っているなら、自らがあの世に渡る前に現世での過ちを正しておきたいものだ。

 我が身を省みて、古希を迎えても言うは易く行うは難しの日々である。 それにしても、かっての学生時代学んだ鉱山工学科の寮に、自分を含めて3人の仲間がいた。 毎日瀬峰町と仙台間の汽車通学をしながら、おんぼろ寮で苦楽を共にした貴重な仲間であった。 卒業後離島の鉱山に就職したため交誼は途絶えがちであったが、風の便り其々結婚し子供も生まれたと知った。 その後M君もK君も亡くなったと知らされた。 共に自殺であった。 彼らがいかなる理由で、いかなるメンタリティで死を選んだかは分からない。 これを知った時の心の虚しさを今も思い出す。 また学生時代の大切な山の仲間、Ik君、Ii君の両名も自殺で失っている。 寮の仲間や山仲間があの世のどこで何をしているかは分からない。 自殺者の行く先を知るものとして、この4人の冥福を心より祈らずにいられない。

目次に戻る