【伝蔵荘日誌】

2010年9月25日: 彼岸に際し、身体と心について思うこと G.P生

   中学・高校の6年間を東京西部のさる私立の学校で過ごした。 この学校では「凝念」と称する集会が週3回、中高生全員が参加して講堂で行われた。 両手をへその下に組み、背筋を伸ばし、更に目をつむり無心の状態で「念」を「凝」らすことから始まり、学園長の講話があり、最後に全学生で「心力歌」を唱和して終わる。 心力歌は心の大切さ・心の鍛錬が人が人として生きていく上に如何に大切であるかが書かれており、文語調で全六章から成っている。 第二章の冒頭の部分を思い出すままに記してみる。

 「心に力ありと言えども、養わざれば日に滅ぶ。 心に霊有りと言えども、磨かざれば日に暗む。 力滅び、霊暗みて、ただ六尺(りくせき)の肉身を天地の間に寄するのみ、悲しからずや世俗の人。

 我に頼む所無く、我に寄する所なければ、境によりて心移り物のために心揺らぐ。 得るに喜び、失うに泣き、勝ちて驕り、敗れて恨む。 喜びは煩いを生み、泣くもまた煩いを生む。 驕れば人と難を構え、恨めば世と難をなす。 現(うつつ)には我身を労し、夢には我が心と闘う。 甲斐なき今日を送りつつ、かかる内に五十年の生涯つく。 心の力と心の霊と、我に備わるものと知らば、道自ずからここに開けむ。」

 当時はこの歌の意味を深く考えず6年間唱和してきたが、今にして思えば、仏陀の教えの一部分を子供達にも理解できるよう易しく説いたものだ。

 身体の内に心はどのように存在しているのだろうか。 心臓は全身に血液を送る器官 であって心ではないし、脳は身体の各器官の機能をコントロールしながら、人として存立せしめている重要な器官だが、心そのものではない。

 肉体がその生命を終えたとき、心もまた同時に存在を失うのだろうか。 自分の父は平成5年3月9日午前1時09分に、80歳までちょうど2ヶ月を残して死去した。 臨終間近の病室のモニターには、心電図と血圧の波形が映っていた。 血圧が60、50、40と下がってきても、心電図は一定の波形を描いていたが、血圧が35を切ったとき突然心電図の波形は横にスーっと一直線になった。 まさにこの死の瞬間に、父の顔が人から物体に劇的に変化するのが見て取れた。 心臓は停止してもその瞬間に身体の硬直は生じないし、体温も平熱より幾分低いものの十分温かさは感じられた。 この生と死の間での劇的変化の理由は単なる物理的な変化だけでは理解できない。 魂が肉体の死により留まることが出来ずに離脱して、人としての存在が失われたと考える方が理にかなっているように思える。

 受胎した胎児に天上界からの魂が宿り人として誕生し、この世で生きていくための乗り船たる肉体の死により、また元の天上界に戻っていく「輪廻転生」が存在する実例を見た思いだった。 父の荘厳で厳粛な死の瞬間に、心に溢れた思いのため私は父の亡骸を凝視したままその場に立ち続けた。

 心または魂は人のどこに存在するのだろうか。 私には身体の部分に存在すると考えるより、身体に心と魂が重なって存在しており、肉体が死するまで二者一体となって人を形成しているように思える。 そうすると脳の存在意義は、心と魂を翻訳する器官と考えた方が合理的に思えてくる。 脳が萎縮して心の翻訳機能が衰えた、いわゆる認知症の状態であっても、本来の「人としての心」は存在している事になる。

 心がむしばまれれば肉体は病に冒され、肉体が病めば心もまた衰える。 先の「心力歌」は心の存在を認識し心を磨く事が大切だとの教えであり、分子栄養学は、肉体の健康レベルを向上させ、いかに維持するかの学問だと思われる。  自分にも、此岸から彼岸に渡るときが遠からず訪れることと思う。 その時が来るまで、この世に生を受けた本来の役割を果たし、現世の肉体での悔いのない一生を終えるために、心の乗り船たる肉体の健康維持と、心のレベル向上と調和をはかる努力は続けて行きたいと思っている。        

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