2010年9月14日: 危機一髪! 難を逃れる。 T.G. ![]() 運転歴はかれこれ50年になるが、フルブレーキングで車を停車させたのは、今回を含めて2度しかない。 両方とも子供の飛び出しだ。 その中でも今回が最も危うかった。 もし自転車との距離がもう2メートル短かったら、衝突は避けられなかった。 今頃警察の取り調べや病院の見舞いなどで暗澹としていただろう。 下手をすると怪我では済まず、女の子が亡くなっていた可能性もある。 老後生活の平安が失われたに違いない。 そうならなかったのは守護神がいて守ってくれたのだと、家人が真顔で言う。 とっさにフルブレーキが踏めた70過ぎの老人の反射神経と運転技量は度外視だが、あえて否定する気にもならない。 おそらく守護神がいたのだろう。 免許を取ったのは昭和38年、大学4年のときである。 就職も決まり、卒論のない理学部数学科はほかにやることがない。 寮で蟄居していたとき、この春に亡くなった、同じく卒論のない経済学部のTo君が自動車免許を取ろうと言い出した。 まだ経済成長期に入る前で、一介のサラリーマンが車を持てるなどと、夢にも考えなかった時代である。 半分は暇つぶし、もう半分は会社をクビになったらタクシーの運転手でもやるかと言う軽いノリだった。 二人して有り金をかき集め、黒松の教習所へ行く。 教習所までの国道4号線は未舗装だし、教習所のコースも舗装していないデコボコ道だった。 当時の仙台周辺は目抜き通り以外大方未舗装だったのだ。 雨の日など、泥水跳ね飛ばしながらコースを回った。 仮免許や路上教習などない時代である。 目出度く免許をもらったはいいが、初めて公道を走ったときは、対向してくるバスや大型トラックに身がすくんだ。 ![]() この車で伝蔵荘仲間のMa君、Sa君らと、東北一周とか、能登から紀伊半島とか、あちこち長距離ドライブした。 三人とも独身で、身軽だったこともある。 当時の日本は幹線道路以外ほとんど未舗装で、東名高速も一部しか開通していなかった。 だから未舗装のラフロードを走るのはお手の物だった。 今ではラフロードを探すほうが難しい。 そういう悪路を、初代日産サニーは故障もせずよく走った。 車の構造が今よりはるかに簡単だったので、多少の不具合は自分で直せた。 日本車の信頼性はこの時期に育てられたのだろう。 以来いろいろな車を乗り継いで今に至っている。 日産から始まって三菱、ホンダ、スバルと、数えて8台目である。 トヨタ車には一度も乗っていない。 良い車なのだろうが、ユーザーをどこか愚民視しているところが好きになれない。 当初は“技術の日産”の硬派なデザインが好きで、日産車を3台乗り継いだが、フェアレディーのような似非スポーツカーを作るようになった頃から興味を失った。 その後三菱の車に乗ったが、あまりの作りのお粗末さに、一度で嫌になり、ホンダの初代アコードに乗り換えた。 ホンダらしい実に良く出来た車で、気に入ってモデルチェンジした2代目に買い換えた。 これが全くの愚作。 重たくて鈍重。 伝蔵荘からスキー場へ行く間、絶えず後輪がスリップして車が横を向いてしまう。 危なくて仕方がない。 それまでの車は、初代アコードを含めてそんなこと一度もなかった。 どの車も雪道をすいすい走った。 いちばん気に入ったのは、今乗っているスバルレガシィだ。 なんと言っても操縦性能が良い。 運転していて快適である。 今回もフルブレーキで姿勢を崩さずまっすぐに止まった。 これより優れた車は金を出せば幾らもあろうが、大方がドイツ車。 同じ値段でスバルが2台買えるし、たびたび壊れる。 レガシィは10年間一度も故障していない。 歳だからこれが最期の車かもしれない。 70歳を過ぎると、免許更新以外に高齢者講習なるものを受けさせられる。 すでに受けてきたOm君の話によると、座学講習のほかシミュレータで運転適正を計るのだそうだ。 もし運転に問題があっても、運転免許は国民の権利だから直ちに取り上げることは出来ない。 注意を促すだけ。 なんのためにやるのか。 まったく無駄な話だ。 講習料に6000円取るそうだから、役人どもの天下りの餌にされるのだろう。 近々講習を受けに行くが、どんな評価が出るのだろうか。 冷や汗をかかされたが、今回のことで、とっさの判断力、反射神経、緊急ブレーキングにはいささか自信がついた。 それでもあと2メートル距離が短かったら、事故は避けられなかったのだ。 車の運転は重々慎重でありたい。 |