【伝蔵荘日誌】

2010年9月5日: 最近の新聞雑誌のつまらなさ T.G.

 最近どうも新聞雑誌がつまらない。 つまらないからつい斜め読みしてしまう。 新聞など、1面から社会面まで、読むのに10分とかからない。 紙の新聞がつまらないのは、前の晩にこれはと思う最新記事やコラムをネットで読み終えていることもある。 ネットでは朝日、読売、日経、産経の他、スポーツ紙、朝鮮日報などに目を通す。 同じニュースの取り上げ方、切り口がそれぞれに違っていて面白い。 「くらべーる」などという、朝日、読売、日経の記事を横並びで見せる新聞もある。 毎日は“お気に入り”に入れてあるが、まず読まない。 この新聞は朝日の程度の低い亜流で、わざわざ読むに値しない。 ネット新聞には最新記事だけでなく、社説やめぼしいコラムも大方載っている。 翌日の朝刊の内容はほとんど同じ。 社説やコラムも一字一句変わらない。 これでは紙の新聞は売れなくなるだろう。

 紙新聞にはネットに載っていない情報も多いが、大方毒にも薬にもならない、下らん内容ばかりなので、つい飛ばし読みしてしまう。 それでなんの痛痒も感じない。 特にニュースはネットより10時間以上遅い。 まるで気の抜けたビールだ。 だから紙の新聞はテレビ番組欄ぐらいしか必要性を感じない。 株価だって気の利いた人は今時ネットで見ているだろう。 知り合いから頼まれてやむなく一紙購読しているが、そのうち取るのはやめにするだろう。 新聞社はこれからどうやって生き延びるのだろうか。

 雑誌もつまらなくなった。 たとえば文藝春秋。 50年前から毎月欠かさず購読している。 昔は面白い記事がいろいろあったが、昨今はレベルが低くなった。 読み応えのある記事や作品が少ない。 ぺらぺらとページをめくって、一つ二つ面白そうな記事を読んだらそれでお終い。 文春編集部の知的水準が低下したのか、それとも小生が歳をとって、社会に対する感受性や好奇心が薄れたのだろうか。 友人の一人も、「最近の文春は面白くなくなった」と言うから、そう感じるのは小生だけではなさそうだ。

 たとえば今月号(9月号)の文藝春秋は特につまらなかった。 読み応えのある記事がほとんどない。 たとえば文春の売り物のトップ記事。 その時々の政治や経済、社会問題など、時事性の高いテーマを取り上げ、編集部の意向に沿ったレポートを評論家やジャーナリストに書かせる。 その切り口の面白さや話題性から 社会的影響力もある。 その最たるものは74年11月号の「田中角栄−その人脈と金脈」であろう。 情報量の豊富さ、確かさ、巧みなレポーティングで話題を呼び、これが契機となって時の金権宰相、田中角栄を総理の座から引きずり下ろした。 角栄の金権豪腕ぶりは今の小沢一郎の比ではない。 一種の社会現象となって、書いた立花隆氏は一躍売れっ子ライターになった。 自民党政治の混乱と衰退はこのときに始まる。

 9月号のトップ記事は、作家の佐野真一氏の手になる「渡辺喜美、この男を信じていいのか」である。 自民党を離党し、みんなの党を立ち上げて話題になった渡辺氏の来歴や周辺を、インタビューを中心にまとめたものだが、そもそも文春の巻頭記事にふさわしい内容ではない。 渡辺喜美氏が今後の政局の中心人物と言うわけでもない。  もしここで渡辺氏を取り上げるのなら、文春たるものとかく評判の悪い民主党政治の先を見据えた人物選択と視点があるべきだが、それもない。 まとめ方自体が低俗なゴシップ記事のようで、文春らしい切り口も品格もない。  かっての「田中角栄−その人脈と金脈」とは比較にもならない。 まったくレベルの低い巻頭記事である。 文春編集部もヤキが回ったか。

 そのほかにも、「理想の政界再編は石破新党 vs. 勝間和代新党だ」とか、「60人アンケート、夏休みの宿題で人生が決まる」など、およそ埒もない、読む気も起こらぬ記事ばかりである。 石破新党はいいとして、理想の政界再編相手が勝間和代とは、編集者の頭の程度が知れる。 こういう質の悪い、無内容な埋め草記事ばかり載せていたら、文春も発行部数が落ちるだろう。

 ほかにも「勝つ日本、40の決断、真のリーダーはたった一人で空気を変える!」という100ページ近い特集記事がある。 タイトルが如何にも大仰である。 今の日本の低迷脱出をテーマにした骨太な企画かと思ってページをめくると、あに図らんや、やれイチローがどうしたの、宮沢りえのヘアヌードがどうしたのと、キャンディーズ解散がどうだの、愚にもつかない話のオンパレードだ。 ここまで来るとばかばかしくて放り出してしまう。

 文春売り物の芥川賞。 今年の受賞作品、「乙女の密告」が掲載されている。 著者は京都外国語大卒の赤染晶子氏。 ドイツ語を学ぶ外国語大の女子学生と「アンネの日記」を主題にした作品だが、文中やたらにカタカナ語とドイツ語が飛び交う。 純文学にしては会話が多い。 ユダヤ人とアンネの日記がなぜ日本文学の主題になるのか、違和感がある。 文学だから異国の事物をメタファにして表現や主張を盛り込むことはあり得るが、そういう意図も必然性も感じられない。 言葉遊びの感がある。 芥川賞は毎年マスコミをにぎわすが、今年のこの作品は話題にものぼらない。 商業誌ビジネスとしては失敗だろう。 芥川賞自体の存在意義が薄れ始めているのかも知れない。

 長々と連載が続いている宮城谷昌光氏の「三国志」は、10年かかってやっと諸葛孔明が死んだ。 中国文学についての宮城谷氏の蘊蓄ぶりは分かるが、いかにも長い。 長すぎる。 話が細部にわたり、登場人物が多すぎて、話を追うのが面倒になる。 最初のうちはつぶさに紙面を追っていたが、最近は面白そうなところだけ拾い読み。 大筋はとうの昔に知っているから、それでも話はつながる。 宮城谷文学の集大成を目論んでいるのだろうが、あまりに冗長すぎる。 半分ぐらいに話を縮めるべきではないか。

 唯一欠かさず目を通しているのは、5年前から連載が始まった福田和也氏の「昭和天皇」。 昭和天皇を主人公に、同時代の日本と日本を取り巻く世界情勢を、史実に沿ってつぶさに追っていく。 福田氏には陸軍参謀石原莞爾をテーマにした同じような著作がある。  いずれも主人公を中心に、同時代の世界情勢や社会状況を並べて、日本の近代史を俯瞰する骨太な内容である。 最近の文春でいちばん面白い連載だ。 今回は昭和15年、大戦直前のノモンハン事変の下りに差し掛かったところである。 昭和64年の天皇崩御まで残すところ40年余り。 後4、5年は連載が続くのだろうか。 大作になりそうで楽しみだ。

 来週10月号が発売になる。 サンダル突っかけて、ご近所の愛書堂へ買いに行く。  店のおばさんとは顔見知り。 あれこれ文春の悪口言いながら、ほかに面白そうな雑誌もないから、この先当分は買い続けることになるだろう。        

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