【伝蔵荘日誌】

2010年3月14日: To君の訃報  T.G.

 To君の奥様から電話があった。 彼が亡くなったという。 享年69歳。 また一人、懐かしい昔の友を失った。

 一月半ほど前、To君が病気療養で入院していて、病状がはかばかしくないと奥様から連絡を受けた。 彼とはここしばらく行き来が途絶えていたので、突然の知らせにいささか驚いた。 病状を聞くと、肺炎を併発し、気管支切開で会話も出来ない。 意識も時々薄れ、奥様とも意思の疎通がままならないという。 見舞いに行けそうか奥様にそれとなく尋ねると、言葉を濁す。 とても見舞いなどという状況ではないのだろう。 仮に意識があったとしても、管でベッドにくくりつけられた惨めな姿を、昔の友人に見られたくないに違いない。 プライドの高かったTo君に辛い思いをさせるべきではないと、思いどどまった。 今日の電話を受けて、せめて生きているうちに顔だけでも見ておけば良かったと、いささか後悔した。

 経済学部のTo君とは大学の寮で3年間一緒に過ごした。 To君とは部屋は違っていたが、学生数30人の小規模な自治寮だったので、毎日寝起きを共にしていたようなものだった。 今頃の学生寮は個室でプライバシーにうるさい。 入り口に鍵をかけるのが常識で、まるでアパート同然の状態だと聞く。 我々の頃の学生寮は、言ってみれば原始共産社会風の共同生活だった。 原則相部屋で、もちろん鍵なんてしゃれたものはない。 プライバシーなどという今頃はやりの訳知り英単語もなかった。 誰でも他人の部屋に勝手に入れた。 近くにあった旧制高校時代から続いている明善寮など、友人の部屋を訪れたら、部屋の壁が壊れて大きな穴が開いていて、ドアも開けずに隣と行き来できた。 先年来仙の折りに立ち寄ってみたら、無粋な鉄筋コンクリートのアパート風に変わっていた。

 北仙台駅近くにあった我々の寮は、寮生自身が運営する自治寮で、霊屋下の瑞鳳寺を追い出された後、精神科病院の院長さんが自殺して空き家になっていた建物を丸ごと借り上げて移り住んだ。 病室に使われていた部屋が20室ほどあって、8畳間は二人相部屋、6畳間は個室に使い、計30人の寮生が寝起きしていた。 精神病院の病棟だったというのに、長屋風木造二階建ての建物には鉄格子もなく、部屋に鍵もかけられなかった。 貧しかった昭和30年代とはいえ、院長さんが自殺するまではどんな精神病院だったのだろう。

 4年生の終り近い寒い冬の夜、医学部のNa君の部屋で、To君と、誰だったか覚えていないがもう一人を入れて麻雀をやっていた。 家に帰る必要がない学生寮の麻雀は、必然徹マンである。 明け方4時近く、何か気にかかって麻雀を中断し、自分の部屋に戻った。 ドアを開けると真っ黒な煙が吹き出した。 何も見えない部屋の中で石油ストーブの炎がかすかに見え、部屋の隅でうめき声がする。 同室の文学部のNa君の声だ。 慌てて窓を開けて煙を逃がすと、Na君がベッドで意識を失っている。 救急車を呼んでNa君を仙台中央病院に担ぎ込んだ。 一緒に同乗して行ったが、後にも先にも救急車に乗ったのはこの時が初めてだ。 夜が明けるとNa君の意識も戻り、連れだって寮に戻った。 点けたままにした石油ストーブの不完全燃焼だったのだが、部屋中ススだらけ、布団も衣類も教科書も真っ黒け。 後始末に往生した。 あのとき部屋に帰るのがもうすこし遅れていたら、Na君の命はなかった可能性が高い。 自分も無事卒業出来ず、今ここでこの日誌を書いてはいなかったに違いない。 この時の小生が発した「火事だー!という身も凍るような絶叫」が今でも耳に残っていると、1年後輩の理学部地質学科のTa君に会うたびにからかわれる。 通夜では久しぶりにNa君、Ta君とも顔を合わせた。

 To君とはワンダーフォーゲル部でも一緒で、よく連れだって山に行った。 付き合いのいい奴で、卒業後ワンゲル仲間と伝蔵荘を作ったときも、二つ返事でメンバーに加わった。 しばらく前から行き来がなくなり、伝蔵荘にも顔を出さなくなっていた。

 夏合宿も終わった2年生の夏休みに、To君と工学部鉱山学科のOm君、1年先輩の薬学部のWaさんと4人で北アルプス全山縦走をした。 十日分の食料とテントで50キロ近くに膨れあがったザックを背負い、黒部峡谷の欅平から入山し、剣、立山、薬師、三叉蓮華、槍、穂高と辿り、上高地まで歩いた。 途中、薬師岳を越えた太郎兵衛平のテントサイトで夕食を作っていたとき、うっかりコッフェルの味噌汁を地面にばらまいてしまった。 そのときTo君が飯ごう飯を頬張りながら、「味噌をなめて湯を飲めば、腹の中で味噌汁になるよ」と慰めてくれたことを今でも覚えている。 そういう磊落な性格だったTo君が、精神を病んで亡くなったと言う。 もって瞑すべし。 合掌。              

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