伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2010年2月14日: 桜田門外の変と二・二六事件 T.G.

 吉村昭著「桜田門外ノ変」(新潮社)を読む。この著者の作品は、史実や実話に基づいた重厚なドキュメンタリー風の作品が多い。図書館で見たらハードカバーの500ページを超える分厚い本なので、暇つぶしに良いと借り出した。予想通りの重厚な内容で、大老井伊直弼暗殺前後のわずか2、3年を、史実を交え事細かに長々と書いている。最初のうちは飽きてきて、なかなか読み進まなかったが、中程250ページあたりから直弼襲撃の下りに差し掛かり、やっと時代活劇小説風になって一気に進む。同じような幕末史をテーマにした司馬遼太郎の作品は、彼一流の面白おかしい“作り話”が随所に盛り込まれていて飽きさせないが、吉村氏の作品は史実に忠実に、出来るだけ脚色を少なくして書こうとするので、いかにも地味である。NHKの大河ドラマには向かない 歴史物の創作としてどちらが良いかは別であるが。

 前半の250ページは、主人公のまじめで律儀な水戸藩士、関鉄之介が、藩主徳川斉昭の尊皇攘夷に共鳴し、安政7年(1860年)3月3日に起きる桜田門外の変のリーダーになるまでの経過が、退屈なほど綿密に書かれる。直弼襲撃の活劇場面は中程のわずかで、その後の150ページは、鉄之介をはじめ生き残りの志士たちの逃走劇に費やされる。吉村氏が関鉄之介を主人公に選んだのは、襲撃の指揮官であったことと、彼の記した多くの日記が残っていることだったという。これらの日誌や文献を元に、事実をつぶさに追う記述法は退屈ではあるが、作り話や脚色の多い司馬遼太郎ものとは異なる重厚さがある。司馬の作品は彼一流の歴史観がふんだんに織り込まれるが、吉村の作品は努めてそれを避けようとしているように見える。水戸藩の視点から書いた作品なので、必然尊王攘夷の肩を持つ雰囲気はあるが、彦根藩主井伊直弼と水戸藩主徳川斉昭のいずれを良しとするわけでもない。

 桜田門の変は、尊王攘夷論を掲げる水戸藩主徳川斉昭と、開国路線に走る幕府大老井伊直弼との確執から起きた事件である。吉村が書くそこまでに至る経緯、直弼襲撃後の志士たちの逃走劇などから、当時の世相や社会状況がかいま見えて興味深い。最も印象に残るのは、江戸時代末期の社会秩序と警察力の水準の高さである。この事変前後の経過や鉄之介らの逃走の顛末を見ると、当時の幕藩体制の警察力はきわめてレベルが高く、犯罪者や被疑者の逃げ隠れがきわめて困難だったことが分かる。日本各地を逃げ回った襲撃の生き残りも、鉄之介を含みほとんどが捕縛されている。これは奉行所などの警察力もあるが、地縁、血縁など、当時の地域社会の人間関係が濃密で、犯罪者の逃げ隠れが困難だったことも与っている。もしかすると、今の時代よりよほど社会秩序が保たれていたとさえ思えるほどだ。

 襲撃に加わった藩士は鉄之介を筆頭に総勢18名(うち1名は薩摩藩士)。事前の申し合わせで、手傷を負ったものはその場で自害、負わなかったものは上京して薩摩藩と合流、朝廷の守護に当たることと決められていた。鉄之介をはじめ何人かの藩士はちりぢりに逃走して京に上るが、東海道は取り締まりが厳しく逃走路には使えない。中山道などを経て、江戸から福井、鳥取を迂回し、大阪、四国、山陽道、長州、佐賀、熊本など、日本全国を逃げ回る。行く先々に幕府の追っ手が伸びていて、難儀をする。紆余曲折の末鉄之介は水戸に舞い戻り、昔のつてを頼って潜伏するが、すぐに司直の手がのび、再び逃走を続ける。山中に隠れても山狩りで追いつめられる。 逃げても逃げても追いかけられる。 袋田から山を越えて黒磯に至り、那須山中の三斗小屋に潜伏し、そこからまた転々とし、最後に捕縛されるのは会津を越えて日本海に近い、越後関川村の雲母(キラ)温泉である。先年山の帰りに泊まったことがあるが、今でも片田舎の鄙びた温泉だ。こんなところまで奉行所の追っ手が執拗に伸びるとは、当時の警察力はなんとも凄まじい。何年経ってもオームの残党を捕まえられない今の警察よりはるかに上だ。

 後書きで吉村氏は桜田門外の変と昭和の二・二六事件の類似性について述べている。偶然大雪の日だったこともそうだが、なによりこの二つの事件を期に国内外の情勢が一変し、激動に時代に突入したことである。事変後の8年間に、国際関係の緊張と争乱、戦乱が詰め込まれ、それぞれに終末を迎えたことも似ている。前者の場合、薩摩と長州が薩英戦争や長州戦争で外国の軍事力を痛いほど知らされ、攘夷から倒幕に目標を切り替えたので、なんとか明治維新にたどり着けた。危ういところで外国の植民地化は避けられた。戦前の軍部はそういう大局観を欠いていたので、最後まで鬼畜米英路線を変えられず、惨めな敗戦を迎えた。その後憲法を与えられ、軍事力を削がれ、今に至るまでアメリカの属国のままである。明治維新も、頑なな尊皇攘夷の水戸藩が主導権を取っていたら、結果は似たようなものだっただろう。そうでなかったのは幸いと言わねばならない。

 桜田門外の変は、外国勢力に対する恐怖から開国に傾き、英米と次々に不平等条約を結ぶ幕府大老井伊直弼と、それに反対し、頑なに尊王攘夷を主張する水戸藩徳川斉昭との主導権争いの中で起きた。いわばコップの中の争い、彦根も水戸もどっちもどっち。日本の未来に対する展望はどちらにもない。あげくに両者とも倒幕の嵐に蹴散らされたことを、後世の我々は知っている。アメリカに付くか中国に付くか、普天間をグアムに持って行くかサイパンか、日本にとって何ら見通しもないCO225%、等々。何の展望もない昨今の政治状況に似ている。

 雲母温泉で捕まった関鉄之介は、江戸に送られ、日本橋小伝馬町の牢屋敷に投獄される。事変2年後の文政2年(1862年)に処刑されているが、処刑方法は断首で、遺体は俵に入れて小塚原にうち捨てられたという。幕府の権威に楯突く大逆とはいえ、大義に殉じた武士に対する処遇としては苛烈なものと言えるだろう。その後の徳川幕府は急速に勢いが衰え、瞬く間に薩長土肥など倒幕勢力の跋扈を許すようになる。鉄之介には一人息子がいた。妻が士分の出ではなかったので婚礼を藩に届け出ていなかった。戸籍的には妾であったので、幸いにもお咎めを受けず、母子共々明治まで生き延びた。その子孫、つまり鉄之介の直系の孫に当たる関勇氏は、つい最近の昭和58年まで生きておられたという。吉村氏はこの小説を書くに当たり、関氏の婦人、静子さん宅をたびたび訪問し、未収録の鉄之介の日誌を閲覧させてもらい、史実の空白部分を埋めたと、後書きで書いている。幕末や明治維新は、遠いように見えて案外近いものだ。

 この日記を書き終えて、念のためにググッて見たら、この小説「桜田門外ノ変」の映画化が進んでいるという。水戸開藩四百年を記念し、主演大沢たかお、監督佐藤純彌で、今年10月に封切り予定という。関鉄之介など無名の登場人物ばかりで、坂本龍馬や西郷隆盛など、幕末の有名スターが一人も出てこない地味な物語を、どうやって映画化するのだろうか。是非見てみよう。

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