伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2009年12月21日: 路面電車復活のニュース T.G.

 朝日新聞が、「富山で市街中心部をぐるりと一周する路面電車が36年ぶりに復活する」と報じている。 少子高齢化を見越し、これからの市街交通手段として期待されているのだという。実に良いことだ。気がつくのが遅すぎる。21世紀の都市計画はこういう方向や考え方が未来的であり、文化、文明なのではないか。

 思いかえしてみると、若い頃の自分の生活は路面電車と大いに縁があった。昔は路面電車などとよそよそしい言い方ではなく、都電、市電と称した。学生時代の4年間を過ごした仙台では毎日市電で大学へ通った。仙台は狭い街で、北は八幡町、北仙台から南の長町まで、幾つかの市電の路線があって、これで市内中心部の交通手段ほぼ事足りた。 料金7円で乗り換えも自由、どこへでも行けた。マッチ箱のような電車がガタゴトのんびり走るので、片平丁の大学までは自転車の方が速かった。卒業後しばらくして仕事で仙台に出張したら、すでに市電は廃止されていて、道路には車がひしめいていた。町並みもすっかり変わってしまって、懐かしさも半分だった。最近は市電復活どころか、青葉通りの欅並木を切り倒して、地下鉄を通すのだという。無粋なことをするものだ。少しは富山を見習え。東一番丁も街の景色もすっかり変わってしまって、もう懐かしさなどまったくない。

 勤めた会社が田町の都電車庫の隣にあって、仕事場の窓から下を覗くと、並んだ電車のレール転換作業をしているのが見えた。今は都営住宅になっている。都電の1番線は品川から浅草までの路線である。今は道路の下を都営地下鉄浅草線が通っている。仕事で会社から銀座方面へ出かけるのに、この1番をよく使った。タクシーを呼ぶより安上がりで、時間もかからなかった。そのころ友人と小石川の伝通院に住んでいて、毎日の通勤に都電を使った。池袋ー田町間を走る38番の都電である。伝通院から水道橋まで出て、そこから中央線の国電に乗り換えて田町まで行った。今のJRである。話は違うが、いまだにJRという呼び方には違和感がある。時々国電と言い間違えて、人に笑われる。その頃の都電の乗車賃は15円で、切符にパンチを入れてもらうと、一回限りの乗り換えが出来た。休みの日には友人と都電に乗ってのんびり散歩に出た。乗り換えを使うと、山手線の内側なら15円でどこへでも行けた。東京には都電の路線が網の目のように縦横に広がっていたのだ。今は荒川線に面影が残っているだけである。

 そのころ仕事で何ヶ月か出張したことがある。ある日出張から戻って、いつものように都電に乗り換えようと、水道橋ガード下の停留所で電車を待っていたが、待てど暮らせど電車が来ない。しばらくして、通りの歩道を歩いている人が、「もう都電は通っていませんよ」と教えてくれた。知らぬ間に38番線が廃止されていたのだ。仕方なく伝通院まで歩いて帰った。通勤がいっぺんに不便になって、別の所にアパートを借りて引っ越した。新入社員の独身時代の話である。

 伝通院の一軒家には同期入社の友人O君と二人で、会社の独身寮を出て移り住んだ。しばらくしてO君のご両親が、息子の様子を見るため北海道から上京して来られて、一目見るなりこんな所に可愛い息子を住まわせておけないと、さっそく縁談を探してこられた。独身者の住まいである。よほど部屋が汚かったのだろう。お見合いが成功してO君が脱出した後、しばらくは一人住まいだったが、今度は高校時代の親友、M君が飲み屋の帰りに転がり込んできて、そのまま居着いてしまった。今は無き大手商社、安宅産業の商社マンだったが、独立するんだと飛び出していろいろな事業をやっていた。休みの日には二人して下駄履きで都電に乗って、神保町や池之端あたりによく飲みに行ったものだ。高度成長期の初期で、のんびりした時代だった。

 小石川伝通院は山手線のちょうど真ん中に位置する実に便利な場所で、友人達がしょっちゅう押しかけてきた。銀座、新宿、池袋あたりで飲んでいて終電に乗り遅れた連中が、しばしば夜中にやってきた。タクシー代もわずかだし、その気になればどこからでも歩いて来られる。ある日残業で夜遅く会社から帰宅したら、友人と見たこともない連中が勝手に上がり込んで麻雀卓を囲んでいた。大学の同窓会の後、友人や恩師と電車がなくなるまで銀座で飲んでいたのだという。その晩は大学教授の大先生も交えて徹マンになった。休日にはしばしば友人達が大勢やってきて、酒と麻雀に明け暮れた。食事に出る暇がなく、停留所近くのトンカツ屋から出前を取った。この連中と語らって、その後八ヶ岳に伝蔵荘を建てた。

 結婚後しばらくして、法事かなにかでお隣に住んでおられた奥さんと会ったことがある。「あの頃は青春真っ盛りでしたね」と懐かしそうに慨嘆された。よほど賑やかだったのだろう。路面電車にはいい思い出しか残っていない。

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