【伝蔵荘日誌】

2009年11月18日: スペイン旅行雑感 T.G.

 先週帰国したスペイン旅行の写真整理がやっと終わった。 デジカメはフィルムや現像代が要らないので、めったやたらに撮りまくる。 後の整理が大変だ。 ほとんどがろくでもないカス写真で、アルバムに収録する気になるのは1割以下である。 後は即刻DELETEだ。

 ヨーロッパ旅行はどこでもそうだが、観光で見て回る対象がもっぱら古い教会や城などで、撮る写真もほとんど似たようなものになってしまう。 似たようなカテドラルや祭壇やステンドグラスのオンパレード、後から写真を見てもどれがどうだったか区別がつかなくなる。 我々異教徒にはキリスト教の宗派や建築様式の違いなど知識も興味もないから、案内人に受けたはずの説明も右の耳から左の耳に抜けている。 外国人が京都や奈良の神社仏閣を見ても同じ様な感じなのだろう。

 マドリードではプラド美術館に行った。 35年前に会社の仕事でマドリードに滞在し、訪れたことがあるが、周囲の街路樹がすっかり大きくなっていて、当時の佇まいとは印象が違った。 そう言えば昔はなかった団体専用の入り口が新たに設けられていて、館内も混み合っていた。 昔は人気も少なく、もっと静かだったような記憶がある。 プラド美術館はスペイン王家の収蔵品展示用に作られたもので、ゴヤやベラスケス、エル・グレコなど、王家お抱え画家の作品が多いが、ほかにレンブラントやルーベンスの作品などもある。 収蔵作品の質量ともにルーブルを凌いで世界一の規模だというが、大方暗いタッチの中世絵画ばかりで、絵心のない当方は見ているうちにだんだん陰鬱な気分になってくる。 特に血だらけの生首が転がっていたり、釘を打たれた手足から血がしたたり落ちていたりするキリスト教の宗教画は、こういうものを有り難がるヨーロッパ人の美意識との断絶を感じてしまう。 こんなことを言うと、美術好きには叱られそうだが。

 マドリードからセビリアまではスペインご自慢の“新幹線”、AVEで移動した。 東京−大阪間に相当する距離を最高時速300キロ、2時間15分で走る。 揺れが少なく、乗り心地も新幹線より優れているが、1時間にせいぜい1〜2本しか走らない。 停車駅も乗降客も少ない。  駅のホームは閑散としている。 10分間隔で運行し、乗客でごった返している日本の新幹線とは大違いだ。 これで商売になるのかと、人ごとながら心配になる。 車両はともかく運行システム技術が劣っているのだろう。 速い列車は作れても、高速大量輸送に必要なシステム技術は日本の真似が出来ない。 中国などが日本の新幹線技術を欲しがるが、レールと車両だけで超高速鉄道は動かせない。 新幹線の信頼性の高いきめ細かな運行システムは中国人には運用出来ない。 導入させたらたちどころに大事故を起こすだろう。 その場合日本は莫大な損害賠償を請求されるから、新幹線は中国に売るべきではない、と言うのが葛西JR東海会長の持論である。

 マドリードから地中海に近いセビリアまで走る間、低い丘陵をたまに見かける程度でほとんどが真っ平らな平野である。 スペインの人口は4千万人、面積は日本の1.4倍だから計算上の人口密度は5分の1だが、日本の国土の80%が居住、耕作不可能な山岳地形であることを考えると、実質人口密度はさらに低いだろう。 ほとんど市街地がない。 羨ましいと言うべきかそうでないと言うべきか、少子化の現在はアンビバレンツな心境になる。 AVEでラマンチャからアンダルシア平原をひた走る間、車窓には延々とオリーブ畑が続く。 どこまで行ってもオリーブ畑しかない。 ほかの作物はどこで作っているのだろう。 スペイン人はオリーブ油が大好きで、何にでもじゃぶじゃぶ入れる。 バター代わりにパンに塗ったりする。 いくら好きでも、こんなに沢山オリーブを作って、オリーブ油は余らないのだろうか。 余計なお世話と言われそうだが。

 今回の旅行でたびたび“ユダヤ人街”を散策した。 マドリードでもセビリアでもコルドバ、グラナダなどでも、観光の目玉である旧市街の中心部に必ずある。 狭い路地が入り組んで、土産物屋やバル(BAR)が軒を連ねていて趣がある。 てっきりユダヤ人が住んでいるのかと思ったらそうではなく、中世にユダヤ人が集まって住んでいた一画だが、嫌われて追い出され、今はユダヤ人は住んでいないのだという。 ただの観光ポイントなのだという。 ユダヤ人街は通称で、地図には表示されていない。 当時金儲けが上手いユダヤ人を追い出した後は、かならず地域経済が没落したのだとも言う。 そうまでしても追い出される。 こんなことを言うと語弊があるが、なぜユダヤ人はこうも嫌われるのだろうか。 古来世界中にユダヤ人迫害の歴史が沢山ある。 その原因の一つ、もしかすると最大の一つは、ユダヤ人が排他的で、何処へ行っても地域住民と交わらず、自分たちだけで固まって居住し、生業をたてる習性にあるのではなかろうか。 各地にユダヤ人街があるところを見ると、この民族の歴史的習性と言うかDNAなのだろう。 その最大にして究極のものがイスラエルと言う国だ。

 こういう自己中心の排他的習性はインド人や韓国、中国人にもある。 どこの国に行っても必ずチャイナタウンやコリアタウンがある。 日本人街はない。 イザヤ・ベンダサンの「日本人とユダヤ人」を読むと、ユダヤ人とインド人は商売と金儲けが上手いので世界中に進出して稼ぎまくるが、その地に住み着いても周りと融合せず固まって住む。 挙げ句に嫌われて迫害を受ける。 アフリカなど後進国の地域経済はほとんどユダヤ人とインド人が握っているが、革命が起きると真っ先に攻撃対象になるのだという。 中国人や韓国人はそれほど金儲けに長けていないが、チャイナタウン、コリアタウンが異質な目で見られていることは確かだろう。 日本人はそこまでの自己主張がないから、たちどころに周りの勢力や文化に吸収されてしまう。 よく言えば融和的だが、存在感も薄い。 最近の世界情勢を見ているとどちらがいいのか考え物ではある。 友愛精神などと甘っちょろいことは、ユダヤ人もインド人も、ましてや中国人も韓国人も決して言わない。

 ヨーロッパの旅は食事と酒が美味いのがいい。 イベリコ豚の生ハムもワインも美味かった。 ヒマラヤだとこうは行かない。 ヒマラヤトレッキングは景色は最高だが、唯一の欠点は食い物がまずく、酒が飲めないことだ。 標高4000mでは食欲が起きず何を食べてもまずい。 ましてや粗末な現地ポーターの料理である。 食べないと歩けないので、むりやり喉に押し込んで飲み込む。 これが2週間続くと拷問である。 アルコールはいくら酒好きでも飲む気が起きないし、飲んだらひっくり返るだろう。 さあ次は何処へ行こうか。            

目次に戻る