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2009年3月22日: エマニュエル・トッド著「帝国以後」を読む。 T.G.

 フランスの人口学、人類学者、エマニュエル・トッドの「帝国以後−アメリカシステムの崩壊」を読む。近頃稀に見る面白い本だ。出版されるや世界的ベストセラーになり、日本でも多くの人に読まれている。図書館で借りようと思ったら半月待たされた。

 著者は1976年、弱冠25才の時、最初の著作「最後の転落」で幼児死亡率の変化から近い将来のソビエト連邦崩壊を予言し、一躍有名になる。この「帝国以後」は今から7年前の2002年に書かれ、超大国アメリカ帝国の衰退を予言して話題を呼んだ。彼はかってのローマ帝国になぞらえてアメリカを「帝国」と呼んでいる。経済力や軍事力の観点から世界の趨勢を論じる著書は掃いて捨てるほどあるが、幼児死亡率や出生率のような人口統計学的観点から国家の変転を推測する手法は新鮮だ。かって経済学者や歴史学者の未来予測は当たった例しがないが、彼が「最後の転落」で予言した通り、その13年後にソ連は崩壊したし、現在のアメリカ金融市場における未曾有の大混乱を見ると、遡ること7年前のアメリカ金融工学絶頂期に“アメリカ帝国衰退の始まり”を見事的中させている。

 トッドの分析、予測の手法は軍事力や経済力ではなく、識字率や出生率、乳幼児死亡率のような人口統計学的指標を用いる。この著書の主張をかいつまんで要約すると次のようである。

 いずれの国も地域も識字率が向上すると文明度が上がる。国家は不可逆的に自由主義的民主主義の方向に進化する。それに連れて性的行動様式が変わり、例外なく出生率が低下する。この近代化の過程において一時期ソ連の共産主義や、アメリカの南北戦争や、ドイツ、イタリアのファシズムや、フランス革命や、日本の軍国主義のような混乱や停滞が生じるが、それを過ぎるとやがて安定した民主主義国家に移行する。進化した自由民主主義国家間ではもはや戦争は起きない。 アメリカは認めようとしないが、ホメイニ革命で過激なイスラム原理主義に傾いたイランでさえ、改革派と保守派の複数政党による民主主義政治が実現しつつある。中国は未だその途上にある。 

 第二次大戦後、アメリカは軍事的にも経済的にも超大国となり、ヨーロッパと日本を保護領とし、ソ連と対峙した。西側の民主主義化された先進国家間、つまりアメリカ、ヨーロッパ、日本の間ではもはや戦争は起こらない。東側の脅威から属領であるヨーロッパと日本を守ることがアメリカ巨大軍事力のレゾンデートルになる。89年にソ連が崩壊すると、アメリカの巨大軍事力は存在意義を失った。やむなくイラクのような弱小後進国相手の“非対称劇場型戦争”で帝国の力を誇示せざるを得なくなる。80年頃からアメリカは生産から金融にシフトし、自ら物を作らなくなった。必要な消費財は保護領である欧州、日本、及びその他の地域からの輸入に依存するようになる。当然貿易収支は悪化の一途を辿るが、それを埋め合わせるために−商品の購入代金を得るために−欧州、日本、中国などから莫大な金融資本を還流させる。それらは国債、社債、株式、投資信託、直接投資などの形態である。90年のアメリカへの資本流入は880億ドルであったが、2001年には10倍の8650億ドルにまで膨れあがった。帝国が保護領に貢がせた金融資産は、世界中から買いまくる消費財の代金として消えてしまうので残らない。何らかの仕方で、例えば企業倒産やドル安などで、“蒸発”させてしまう。 つまり壮大な借金踏み倒しである。こんな馬鹿げたことがそう長く続くわけがない

 この状況下で、トッドはアメリカ帝国衰退についての次のように予言する。今では世界中が知っていることだが、これが書かれた2002年当時は誰も気付かなかった。特に小泉改革を煽った日本の新自由主義者達は。

「ヨーロッパ、日本、その他の投資家達は早晩“身ぐるみ剥がれる”のは間違いない。最も考えられるのは“前代未聞の規模の証券パニック”に続いてドル崩壊という連鎖反応によるものだろう。その結果アメリカは帝国としての地位に終止符を打ち、他の国同様に対外収支のバランスを保たねば生きていけない“普通の国”になる。このことはアメリカ国民の生活水準を今より15〜20%下げねばならないことを意味する。もはや足りない分を他国に貢がさせるわけにはいかない。」

 現在のアメリカの状況にぴったり当てはまる。7年前、アメリカ金融工学絶頂期に、今では世界中が知っているサブプライムローン破綻に端を発するアメリカ経済大混乱を見事に言い当てている。トッドが予言した通り、ヨーロッパも日本もまさしく身ぐるみ剥がれてしまった。アメリカはもう借金は出来ない。日本もヨーロッパも中国も、もう貸す金はない。その上アメリカの金庫は空っぽだ。オバマがいくらしゃかりきになっても、注ぎ込める公的資金には限度がある。アメリカの金融は元には戻らないだろう。アメリカはもはや超大国としての地位を保てない。ヨーロッパや日本と同じ“普通の国”になるしかない。トッドは辛辣に言う。「20世紀の如何なる国も、戦争や軍事力によって国力を増大させた例しはない。ロシアもフランスもドイツも日本もそうだった。現在のアメリカがテロリズムとの戦いの中で残り少ないエネルギーを使い果たしたいというなら、勝手にそうさせておこう。アメリカは己の無能を世界に暴露する事になるだろう」と。アフガニスタンで相変わらず非対称劇場型戦争を仕掛けようとしているオバマはこの言葉を何と聞くだろう。

 著書の中で、トッドは他にも幾つかの興味深い指摘をしている。

■先進国と途上国の一部の出生率はすでに人口維持に必要な2.1を下回っており、その他の途上国も低下が進んでいる。この傾向が進むと、2050年ぐらいには世界の人口増加は止まる。

■トッドは中国について殆ど言及していない。どうやらトッドは中国は巨大化した経済にかかわらず国家としては未だ発展途上にあり、先進的自由民主主義国家に移行出来ていないと見ているようだ。 そうなるまでの間にアメリカやヨーロッパ、ロシア、日本が経験した戦争や革命に相当する“移行期的危機”が避けられない。それまでは本書の論評の対象にはならないと言うことだろう。

■イスラム圏に現在見られるイスラム原理主義の暴力も同じ様な移行期危機であり、イランを筆頭に民主化への道を辿っている。アメリカが口汚く罵るように、イスラム教が本質的に暴力的であるという見方は誤りである。

■アメリカにおける白人と黒人の婚姻率はアジア系など他人種とのそれに比べて異常に低く、この10年実質的に低下している。さらに黒人の乳児死亡率も悪化している。乳児死亡率は社会の中で最も弱い個人の状況を表すものである。この点からもアメリカは人種差別の解消についに失敗したと断言出来る。(オバマを選んだアメリカ国民は何と言うだろうか?)

■経済が弱体化したロシアの弱点は、小さな四つの島の帰趨にこだわり、経済大国日本と平和条約を結べていないことである。アメリカが超大国の地位を失いつつある今、ロシアと日本の歩み寄りは両者にとって有益な戦略になりうる。

 トッドはフランス、ヨーロッパで有力なオピニオンリーダーになりつつあるという。本書は当時のシラク政権に多大な影響を与え、イラク戦争に対し仏独が協調してアメリカと袂を分かつための理論と動機のベースになった。同種の影響をロシアも受けている。保護領ドイツはアメリカに対し独立宣言をしたに等しい。トッドは同じ敗戦国であり保護領である日本に対しても同様な振る舞いを奨めている。一考に値する。トッドは2006年に続編「帝国以後と日本の選択」を出版している。ぜひ読みたいものだ。
  

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