伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2008年11月11日: 遠い戦争の記憶 T.G

 戦後63年、互いに所在が分からなかった父方の遠い親戚と再会した。終戦間際の昭和20年7月にお世話になったお宅である。ひょんなことでお互いの消息が分かり、遠い桑名から新幹線を乗り継いで来宅してくれた。遠い記憶を辿りながら語り合ううちに、当時の共通の記憶である名古屋大空襲の話になった。当方はその頃まだ5才。断片的な記憶しかないが、それでも幾つかのショッキングな情景をうっすら憶えている。話に加わっていた7才違いの長姉は具体的なことを細々憶えており、同年齢の親戚との話が弾んだ。初めて聞かされる話も多く、いささか感無量な思いをした。

 戦争も押し詰まった昭和19年、父親が赤紙召集でフィリピン、ミンダナオ島へ出征し戦死した。父が呉服商をしていた家は名古屋のど真ん中、栄町にあったが、空襲が激しくなり、母子共々つてを辿って桑名に疎開した。史実によると、名古屋市街が灰燼に帰した大空襲は昭和20年3月19日だそうで、その直前、空襲が激しさを増した2月ごろに桑名へ疎開したのだろうが、その頃の記憶はまったくない。

 桑名の親戚近くの借家を借りて、母と幼い子供6人が疎開生活をしていた。そのあたりは揖斐川の下流域、グーグル地図で見ると今でも畑や水田が広がる田園地帯である。ここまで空襲は及ばないだろうという目算だったようだ。その小さな集落が7月に入って突如空襲にあった。そこから先のことは当時5才だった自分にも幾つかの記憶が残っている。よほど印象が鮮烈だったのだろう。それが7月のことだったのは、今回親戚の人の話を聞いて初めて知った。

 夜半に空襲警報が鳴った。母親に起こされ、防空頭巾を被せられ、手を引かれて外に出ようとしたとき、玄関先に焼夷弾が落ちた。真っ赤に燃え上がる玄関先の光景を、今でもありありと憶えている。やむなく裏手に回り、田圃のあぜ道づたいに親子7人、連れ立って逃げた。一番下の弟はまだ一歳の赤ん坊だったから、母に背負われていたのだろう。周囲の家々はすべて炎上し、煙と炎で空が真っ赤に染まっていた。堤防づたいに人々が数珠つなぎで逃げる。近くのお寺に差しかかったとき、境内でぱらぱらと音がした。グラマンの機銃掃射だとよそのおじさんが言った。姉に聞くとそんなことは憶えていない、記憶違いではないかという。

 機銃掃射については姉自身が別の場面で見た記憶があるという。当時14才だった姉の話だから確かだろう。遠くのあぜ道を走っている人が、突然倒れて視界から消えた。近寄ると、腹部に弾丸を受け、血だらけであったという。攻撃の必要もない農村地帯なのに、目標の工業地帯の爆撃を済ませた艦載機が母艦に帰投するとき、下を見たら田圃の中を人が逃げ回っているので、面白半分で急降下し、狩りでもするような気分で撃ちまくったのだろう。アメリカ軍もずいぶん残虐なことをしたものだ。

 この空襲で憶えている情景がもう一つある。赤く染まった空を見上げたら、たくさんの黒い針のようなものが、斜めになって雨のようにさらさらと降り注いでいる。後で聞いた話でB29から投下された焼夷弾だと知った。疎開先で不発のものを見たことがある。厚手のボール紙を直径10センチぐらいの六角の筒状にして、中にナパーム油脂を入れ、先端に信管が付けられている。これを束ねてB29爆撃機から大量にばらまくのである。日本だけに使われた特殊兵器で、木と紙で作られた日本の市街地攻撃には絶大な効果があった。3月10日の東京大空襲では一晩に10万人、3月19日の名古屋大空襲でも1万8千人が焼き殺された。非戦闘員の一般市民殺傷を目的に開発された、原爆以上に効果的で残虐な兵器だった。

 ここから先が親戚との共通の話題になるのだが、焼け出されたその足で、少し離れた所にある親戚の農家に母子共々転がり込んだ。父方の遠い親戚筋で、とてもお世話になれるような間柄ではないのに申し訳なかったと、生前母が述懐していたという。母の言うとおりの遠縁であったが、いきなり転がり込んできた母子7人を嫌な顔もせず、受け入れてくれたらしい。同年配だった親戚の男の子と一緒に遊んだ姉との会話に、そのことが窺えた。その二人とも、今は70半ば過ぎの後期高齢者である。申し訳ながった母も40年前に亡くなって今はない。

 長いことお世話になったように記憶していたが、親戚の人の話では終戦直前、7月15日前後のわずか半月のことだったらしい。大きな農家で、離れの一間に空襲で火傷を負った女の人が寝かされていた。皮膚がずるむけで化膿し、暑い夏のこと、蠅がたかるので障子を開け放し、蚊帳を釣って寝かされていた。数日後に亡くなった。よそへ嫁いだ親戚の一番上の姉だったという。納屋に牛が飼われていたのを憶えている。親戚の話では伊勢湾台風の時、納屋ごと埋まって死んだという。腐敗した牛の死骸の始末に往生し、舟で揖斐川を引っ張って、海に捨てたと昔話をしていた。

 近所のおじさん達が、桑名沖に浮上したアメリカ潜水艦を見に行ったら、赤や青の明かりが見えたと話していた記憶がある。その話しをしたら、桑名は名物の蛤でも分かるように遠浅の海で、潜水艦が近づけるわけがないと言われた。人の記憶なんてそんなものなのだろう。大人達が不発の焼夷弾を拾ってきて、中の油脂を風呂の焚きつけに使っていたのを憶えている。不発と言っても信管がついているのに、ずいぶん危ないことをしましたねと言ったら、そうだねと笑っていた。

 これも初めて聞いた話だったが、母が二番目の姉を連れて少し離れた集落に買い出しに行った。そこで空襲に遭い、近くの防空壕に逃げ込もうとしたら、いっぱいだからと入れてくれない。幼子を連れてまごまごしている母を、近くにいた兵隊さんが見かねてこっちへ来いと、駐めてあったトラックの下に押し込んでくれ、間一髪助かった。入れてもらえなかった防空壕の近くに1トン爆弾が落ち、中の人は全員即死したという。もしその時母が防空壕に入れてもらっていたら、おそらく自分は今まで生きながらえてこれを書いていない。人間万事塞翁が馬である。

 1トン爆弾は原子爆弾を除き当時最大の破壊力があった。グアム、サイパンあたりの飛行場から飛び立ったB29爆撃機が、三菱重工など軍需産業が犇めいていた工業地帯の爆撃を終えて帰投する際、航続距離を伸ばすため桑名上空で捨てたものが運悪く田舎の防空壕を直撃したのだろう。

 帰宅した親戚から今朝電話があった。懐かしい顔に会えて感無量だったと電話口で礼を言われた。近いうちに桑名を訪れて、お世話になったあたりを訪ねてみよう。

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