【伝蔵荘日誌】

2008年10月12日: ノーベル賞と英語教育 T.G.

 月初めに旅行に出て、旅先で新聞もテレビもろくに見なかった。 帰宅するとノーベル賞騒ぎが起きている。 物理、化学併せて4人もの日本人が同時受賞したという。 もっともそのうちの一人南部陽一郎博士はアメリカに帰化したアメリカ人ではあるが、基礎教育、基礎研究を日本の大学で終えた後アメリカに渡っているから、実質日本人科学者受賞と変わりない。 戦後のノーベル賞はアメリカ、イギリスなど英語圏の受賞者が大半で、アメリカのお手盛り賞などと陰口が囁かれているが、目出度いことには変わりない。

 いつも愛読している「株式日記と経済展望」というブログを見ていたら、この件に関して面白い話が載っていた。 一つは、「日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。 我が国も英語ではなく韓国語で科学教育を行なうべき 」という韓国日報の記事である。 記事の原文は韓国語だが、2チャンネルに日本語訳が載っている。 大手マスコミはこの種の記事を報道しない。

 それによると、日本人が基礎科学に強い理由の一つとして、日本語だけで高等教育を受けられることを挙げている。 素粒子論のような最先端の基礎科学研究は英語の論文を読んでいるだけでは駄目で、“深みがあり独創的な思考が重要”だが、それを支えるのは母国語ベースの思考だと言う。 いくら英語に強くても、借り物の第二外国語ではそういうレベルの深い思索は出来ない。 日本人はあらゆる領域の文献、学術用語、概念用語を日本語に訳し、物理、化学、数学、経済、から哲学に至るまですべての教育を自国語の教科書で受けられる。 日本語で書いた英語の教科書まである。 考えてみるとこういう国は世界にも数少ない。 自国語ですべての分野の高等教育を受けられる国は、日本以外にせいぜい英語圏の国とドイツ、フランス、イタリアぐらいだろう。

 物理学で言えば、原子核、陽子、電子、素粒子などという難しい概念用語もすべて日本語に訳されている。 他にも、民主主義、社会、革命、共和国、人民、国家などの社会用語もすべて日本人の創作で、中国など漢字圏の国でも広く使われている。 話は逸れるが、“中華人民共和国”などという国名はほとんどが日本語なのだ。 よく恥ずかしくもなくこんな国名を使うものである。
 それに引き替え、韓国では早くから英語教育に力を入れており、大学の専門課程では英語の教科書を使い、英語で授業を行うのだという。 国も国民もおしなべて英語教育に熱心なこともあるが、日本のようにすべての学術用語が自国語に訳されておらず、大学の専門課程に使うハングル語の教科書など存在しないことが最大の原因だという。 多少英語が得意でも、英語の文献を読むのは大変な労力だ。 日本の学生が10冊読む間に韓国の学生は1冊しか読めない。 これではとても太刀打ち出来ない、という趣旨である。

 今朝の産経新聞のコラムに、脳溢血で左脳の言語中枢を侵されたハーバード大脳神経学者、ジル・テイラー博士の興味深い体験談が紹介されている。 それによると、言語機能が失われた博士は自らしゃべることはおろか、他人の会話も聞き分けられず、まるで犬の鳴き声と同じに聞こえたという。 さらに重要なことは、言語機能が完全に失われているうちは、物事を論理的に筋道立てて考えることが出来なかったという。 つまり人間の思索は言語を介して行っているわけだ。 言語、特に母国語が如何に重要かと言うことの証左だろう。 博士は8年に及ぶリハビリで言語機能が回復し、元の学究生活に戻れたが、言語機能が戻らぬうちでも、絵を思い浮かべたり、表情で他人の気持ちを理解することは出来たとも言っている。 芸術などの直感的要素が強い分野と、物理、化学、哲学など思索的要素が重きをなす分野は、原理的に別物と言うことだろう。

 最近、我が国でも英語教育の重要性が声高に言われ、文科省あたりでも小学校から英語教育を取り入れる動きが出ているが、大いに疑問だ。 経済人やマスコミや評論家は、日本人のような英語下手では国際社会では生きていゆけないとか、国際ビジネスで太刀打ち出来ないなどとしたり顔で言うが、そんなことはありはしない。 考えるまでもなく、英語下手でも世界第二の経済大国になれたし、物作り経済では世界一だし、世界一の外貨準備も持っている。 その事実を忘れてもらっては困る。 むしろ日本の経済人が英語下手だったから、幸いにも昨今の経済的大混乱の元凶であるアメリカ製インチキ金融工学に汚染されずに済んだ。 このインチキ金融工学の元祖フリードマンは、76年にノーベル経済学賞を受賞している。 ノーベル賞のうち、経済学賞と平和賞がアメリカ製インチキ賞と言われる由縁だ。

 カナダやオーストラリアのように英語が真の母国語になればいいが、日本人がいくら勉強しても、英語は借り物の第二外国語に過ぎない。 それではノーベル賞レベルの深遠な思索は出来ない。 他国に羨ましがられるような自国語文化を毀損してまで英語にのめり込む必要はさらさらない。 英語などせいぜい中学生から初めて、そこそこに読み書きが出来れば十分である。 英会話など、必要に迫られればどうにでもなる。 いざとなれば通訳を傭えばいい。 RとLの発音が区別が出来ないなんてご愛敬というものだ。 今回の4人の受賞者のうちの一人、京都大学名誉教授の益川博士は、英語が苦手で大の英語嫌い、一度も海外の学会に出たことがないという。 そう言えば、2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんも、英語が苦手で授賞式での英語のスピーチに苦労していたことを思い出す。 英語能力と文化水準に相関関係はないと言うことだろう。 文科省はそのことに重々留意すべきだ。     

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