伝蔵荘日誌
             【伝蔵荘日誌】

2008年8月20日: 今年度芥川賞作品「時が滲む朝」を読む T.G.

 今年度芥川賞受賞作品「時が滲む朝」を読む。作者の楊逸氏は1964年黒竜江省ハルピン生まれ。87年、23歳の時来日し、以来22年あまりを日本で過ごした在日中国人である。来日後お茶の水大学で地理学を学び、卒業後中国語新聞社に入り、日本人と結婚して一児をもうけたが、その後離婚し、現在はシングルマザーだという。昨年文学界新人賞を取った「ワンちゃん」は芥川賞候補にもなった。

 芥川賞恒例のインタビュー記事によれば、建国直後、地主だった祖父が人民解放軍に批判され台湾に逃れた。生まれて5年後に起きた文化大革命で、大学出の知識人だった父親共々僻地に下放され、辛い子供時代を送ったという。下放が解かれハルピンに帰った後も出自を問題にされ、屈折した青年時代を送らされた。高校を出た後、ハルピンの大学に入り、商業会計を勉強していたが、留学ビザが下りたのを機に来日、以来22年、母国には帰っていない。来日2年目に起きた天安門事件が今回の受賞作のモチーフになっている。

 成人後に外国に移り住み、その国の言語を完全に習得するのは至難の業だ。40年近く日本で生活している知り合いのアメリカ人は、奥さんも日本人だというのに、いまだに日本語がたどたどしい。アメリカに移り住んで何年も経つ、英語使いの日本人の英語もあの程度なのだろう。23才で来日し、新宿歌舞伎町の日本語学校で日本語を学んだ作者も、相当の苦労をしたに違いない。そう言う観点でこの作品を読むと、書かれた文章も文体も実にこなれた日本語で、まったく違和感がない。語彙も文章の巧みさも並の日本人にはとうてい及ばないレベルに達している。

 そのことを十分認めた上でこの作品を評すると、内容はともかく、文章は今ひとつである。普通の作文ならこれで十分通用するが、日本一の純文学賞作品となればそうはいかない。全般を通じて稚拙な感じが否めない。特に会話文と疑似音の多用が通俗小説のようである。例えば「ぽたぽたと汗玉が落ちる…」とか、「バシッバシッと拍手の音が湧く」、「ジャン、コン、コン、ジャン…と大音響のドラと太鼓の音…}、などである。疑似音は分かりやすく手軽なので、漫画や子供向けの物語などで多用されるが、大人向けの文学作品では意図的な効果を狙う以外使うべきではない。文章能力の低さを証明するようなものだ。評者の一人、宮本輝氏も、「唾を飲み込んで「ゴックン」などと書かれると、それだけで拒否反応を起こす」と述べている。文学作品の価値の半分は文章にある。文章力にハンディキャップがあるのを承知の上で、この作品を選考対象にした文芸春秋社の狙いが分からない。同社一流の“文芸ジャーナリズム”なのだろうか。

 さて、残り半分の内容についてである。改革開放前の中国の若者が、民主化運動にのめり込み、天安門事件で挫折し、国外に逃れて様々な思いや経験をする、約20年間の経過を書いたタイムストーリーである。日本の純文学にありがちな、閉鎖的な時空間でくどくどと心理描写を繰り返す四畳半趣味の作品と違い、ストーリーとテーマが明快である。その分登場人物の心理描写が平板になるきらいはあるが、これまでの芥川賞作品にはない骨太なストーリー性が際だっている。私小説の影響を色濃く受けた日本の純文学は、きめ細かな心理描写に価値観を置き、ストーリーを重視しない。日本文学には、トルストイの「戦争と平和」、パールバックの「大地」、マルタン・デュガールの「チボー家の人々」などと言った、外国文学に見られる長大なストーリー展開に重きを置く作品がない。芥川賞も例外ではない。短編であってもストーリーは書ける。日本文学はストーリーに芸術性を認めない。通俗小説扱いをする。閉鎖的時空でのちまちました心理描写に飽き飽きした読者から見ると、この作品は実に斬新な感じがする。文芸春秋社がこの趣向を意図的に取り上げたとすると、沈滞した日本の純文学に一石を投じる可能性がある。

 しかしながら、民主化運動で挫折し、オリンピック景気に湧く祖国の繁栄から取り残された主人公が、ただ泣きを言うだけの結末は頂けない。尻切れトンボで純文学らしいメッセージ性が皆無である。文芸春秋社は芥川賞をどういう方向に持っていこうとしているのだろうか。選者のコメントや批評にもとまどいや混乱が見受けられる。

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