【伝蔵荘日誌】

2008年8月14日: 日本人の種族保存本能 T.G.

 妊娠中の知り合いの娘さんが、帰宅途中にひったくりに遭い大怪我をした。 救急入院した病院で胎児の状態を診察したが、幸いなことにお腹の赤ちゃんは今のところ問題がないらしい。 しかし突き飛ばされて転んだ娘さんは大変だ。 肩の骨を複雑骨折しているが、胎児への影響を考えて、治療が出来ないという。 麻酔も打てず、手術もギプスも出来ないらしい。 一番可哀相なのは娘さんだが、初孫を楽しみにしている知人も、突然降りかかった災難にすっかり落ち込んでいる。 奪われそうになったバッグをとっさに抱え込んだら、力任せに突き飛ばされたらしい。 お腹の大きな妊婦と分かっていて突き倒した犯人は、鬼畜の所業である。

 こういうアウトローの不届きものは論外としても、最近の日本人は妊婦への気遣い、心配りがない。 大きなお腹を抱えて仕事を続けていたうちの嫁は、通勤電車の中で席を譲られたことがないという。 妊娠中を示すマタニティバッジと言うのがあるらしいが、つけていても誰も知らん顔だという。 目の前のお腹の大きな女性を平気で立たせておくらしい。 バッジをもっと大きなものにしたらと言うと、近頃は変質者が多いので、余り目立つとかえって危険なのだという。 いやな世の中である。

 長年生きてきた実感として、今より昔の方がはるかに妊婦や子育て中の女性に世間の心配りがあったような気がする。 お腹の大きな女性や赤ちゃんや、よちよち歩きの幼児を見かけると、無関係の他人でも保護者のような気分になった。 妊婦には今より多くの人が席を譲ったし、若いお母さんが満員電車の中で授乳すると、周り中がほほえましい気分で目をそらしたものだ。 今はそう言う周りの気遣いがないから、若いお母さんは電車の中で授乳はしない。 大袈裟に言えば、昔は育児子育てをご当人等を含めた世間がしていた。 よちよち歩きの幼子がいれば、危なくないかと周り中が気を配った。 どこにでも世話焼きオバサンさんがいたし、子供がいたずらをしたら、よその知らないオジサンが叱った。 親もそれを多とした。 今、他人の子供にそんなことをしたら、白い目で睨まれる。
 そう言う社会全体のほんわかした気分が薄れたのはいつの頃からだろう。 昔だったら、あのひったくり犯人も目の前を通る女性のお腹が大きいことに気がついて、別の獲物を物色したのかも知れない。

 有名な動物行動学者のコンラート・ローレンツが、「人イヌにあう」と言う著書の中で書いていることだが、闘争に負けた狼は体を仰向けにして一番の弱点である喉を相手の牙に向ける。 そうされた狼はその咽に噛みつくことが出来ず、戦いをやめる。 別に狼が理性を持っているわけではなく、種族保存の本能なのだという。 戦う相手を噛み殺していたら、狼は絶滅する。 古来人間も争い好きな動物だが、同じ理由でか弱い妊婦や幼児には攻撃性を向けず、守り慈しむ本能が仕組まれていた。 どうやら最近その本能が弱まってきているらしい。 電車の中でお腹の大きな女性を見てもなにも感じない。 守ってあげなければという無意識の本能が消え失せている。 赤ちゃんの可愛い泣き声が騒音に聞こえる。 泣きやまない赤ちゃんを、うるさいからと床にたたきつけて殺した親がいた。 小金欲しさにお腹の大きな娘さんを突き飛ばした犯人も同類だろう。

 こういう風潮が種族保存本能の退化から来ているとすると、日本の少子化は深刻である。 子供を産んで育てるという価値観や意欲の低下が、若い男女だけでなく社会全体に蔓延しているのかも知れない。 聞くところによると、少子化が問題になっている現在でも、年間の堕胎件数は100万件近くあるのだそうだ。 その半分でもちゃんと生まれたら、少子化問題などたちどころに解決する。 そうだとすると、政府の少子化対策はまったく見当違いと言うことになる。 いくら金を出しても、保育所を作っても、育児休暇を作っても、妊婦を大事にし、生まれた子供を慈しみ育てるという社会的本能を取り戻せなくてはどうしようもない。 過度な医療訴訟をおそれて医学部の学生が産婦人科の医師になりたがらない風潮なども、出産という人類最重要事に対する世の中の無関心が生んでいるのだろう。

 人間も含めて、生物の活力の源は生殖本能と種族保存本能にある。 最近感じることだが、近頃の日本国の際だった退潮傾向はもしかするとこういう根源的問題から来ているのかも知れない。

 世界を震撼させるほど好調だった経済が、バブルクラッシュ以来いつまでたっても回復しない。
 世界一だった企業競争力が大幅に低下している。
 学力低下やイジメなど教育現場が劣化している。
 若者達が無気力化し、忍耐力、勤労精神が欠け、派遣やニートや引きこもりが激増している。
 離婚率上昇のみならず、結婚せず、子供を産まない男女が増えている。
 先生のような聖職でさえ、賄賂で職を得る悪しき風潮がはびこっている。
 他国や得体の知れぬ世論におもねる、覇気に欠けた無気力な政治が横行している。
 官僚の質が劣化し、国家観を欠いた行き当たりばったりの行政をする。
 堅気の生活者や青少年に、わけの分からぬ殺傷事件が増えている。
 勉強しろと言われた子供が、それだけの理由で簡単に親を殺す。
 格差格差と意味もなく騒ぎ立て、世の中全体が他力本願で無気力な方向へ流れている。
 オリンピック選手に闘争心がかけ、メダル数が韓国、北朝鮮にまで置いて行かれる。

 こういうもろもろの劣化傾向が、すべて日本人の種族保存本能の低下によって引き起こされているような気がしてならない。 もしそうだとすると、対処は難しい。 一度衰えた種が蘇った試しはない。 政治や行政が少しぐらいいじくってもどうにもならない。 国家社会の生存本能の問題だからだ。 最近の経済統計によれば、日本のGDPは明治以来の成長傾向から縮退の時代に入ったという。 これを押しとどめて、日本が今までのような経済大国であり続けるための処方箋を誰も示せない。 日本危うし、の感がある。    

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