【伝蔵荘日誌】

2008年6月10日: 秋葉原事件と労働者派遣 T.G.

 秋葉原で起きた無差別殺傷事件には驚いた。 最初テレビのテロップで見たときは、麻薬常習者あたりの錯乱によるものだろうと思ったが、どこにでもいるごく普通の青年が、異常とは言えない精神状態で起こした事件と分かってなおさら驚いた。 最近頻発する残虐事件のほとんどが暴力団のようなアウトローではなく、ごく当たり前の青年男女が普通の生活の中で引き起こしている。治安が悪いと言われる諸外国とは様相がまったく異なる。 ある意味、社会状況としてはより深刻ではないか。

 捕まった容疑者(”容疑者”とは、法治国家は面倒なものだ!)がトヨタ系自動車工場の派遣社員だったことと、犯行直前勤務先でトラブルを起こしていたこととの因果関係が盛んに報じられている。 彼程度の境遇の若者はいくらもいるのだから、事件の異常性の説明にはならないが、この事件を含め、最近の殺伐とした世相が、派遣と言われるいびつな労働形態と無関係とも思われない。

 自身をその立場に置いてみれば分かるが、派遣社員と言うのは実に残酷な境遇だ。 昔の野麦峠の女工さんと同じで、働いても働いても給料は上がらず、親方(派遣会社の社長)に少ない給料をピンハネされる。 身分も老後も保障されず、あがいてもあがいてもあり地獄のように抜け出られない。 今の日本の労働環境では、新卒時一回だけの機会を逃したら、正社員への道は事実上閉ざされている。 一度その身分に落ちたら、這い上がるのは至難の業だ。 多くの派遣企業では厚生年金や組合保険のようなフリンジベネフィットを与えていないから、社会保障システムの外側に置かれる。 税込み月20万円では結婚も出来ないし、子供を生み育てるなんて夢のまた夢だ。 こういう状況に置かれたら、たいていの若者は将来への希望や向上心など持ちようがない。 もし自分がそうだったら、この容疑者のように絶望的になるだろう。

 我々がこの容疑者と同じ年頃には、派遣社員などと言ういかがわしい労働形態はなかった。 映画の寅さんに出てくるタコ社長の印刷会社のように、能力如何に関わらず会社に入れば正社員であって、終身雇用、年功序列の枠組みに入れてもらえた。 安月給でも毎年少しずつ給料が上がった。 能力のあるなしにかかわらず、それぞれに明日を信じて働けた。 油まみれで働く博だって、さくらのような可愛い女性と結婚して、家庭を持てた。 その頃は口入れにつながる職業斡旋や労働者派遣は法律で厳しく制限され、通訳などの特殊技能者以外、固く禁じられていた。 明治の頃の野麦峠のような悲惨な労働環境を防止するためである。 20年前頃からそれがなし崩しになって、明治の女工哀史の時代に戻ってしまったのだ。

 安い労働力確保を望む経団連などが自民党や労働省に圧力をかけ、1986年に労働者派遣法が実現した。 それまで厳しく制限していた労働者派遣の制約を緩めたのだ。 その昔は“口入れ稼業”と蔑まれ、日陰者だった人材派遣業が大威張りで大手を振って歩けるようになった。 それでも一般製造業などへの技能者派遣は制限されていたが、1999年、2004年の相次ぐ法律改正(改悪!)で派遣の制限は事実上撤廃されてしまった。 トヨタを含め、今ではほとんどの企業の生産現場は派遣社員で埋め尽くされている。 企業は季節工のように好きなときに好きなだけ労働力を集められ、要らなくなれば簡単に放り出せる。 保険や年金のような身分保障にコストをかけなくても済む。 まるで人間のカンバン方式だ。

 今や、派遣、フリーターなど非正規雇用者は1700万人を超え、労働人口の34%に達している。  経営者や経団連のお偉方はしてやったりと悦に入っているだろうが、このことが格差を生み、年金や医療制度を押しつぶし、若者の向上心をつみ取り、社会不安の元になっている。 新しい階層社会を生み、固定化している。 これでは日本社会が劣化するばかりだ。 政治家も官僚も経営者もそのことに思いを致さない。 こうも派遣が跋扈すると、トヨタやキャノンの高い業績がそう言う日本社会の毀損、劣化の上に成り立っているとしか思えない。 いったい社会にとって企業活動とは何なのか。 社会秩序を毀損してまで利益を上げるべきものか。 今のような状況を放置して、外国人労働者を1000万人増やすなどとぶちあげる自民党政府は、気が狂ったとしか思えない。 彼らには国家国民に思いを致す志はないのだろうか。

 今からでも遅くはない。 労働者派遣法を元に戻し、労働環境の健全化を図り、若者が明日を信じられる社会にしたらどうだろう。 それでは中国などとの競争に勝てないというなら、国民すべてが昔のように贅沢は言わず、朝は朝星夜は夜星、汗水垂らして働けばいいではないか。 国民の側にもその覚悟が必要だ。 民が滅びて国が栄えても仕方がない。        

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