【伝蔵荘日誌】

2008年3月16日: 樋口一葉の「たけくらべ」を読む T.G.

 大学時代の寮の先輩から読書会の案内が送られてきた。 今月は樋口一葉の作品だそうである。 「たけくらべ」や「にごりえ」などの作品を、どれでもいいからひとつ以上“原文”で読むことがテーマである。 一葉の文体はまだ完全な言文一致体にはなっておらず、一種の疑似古文で今の人達には読みづらい。 最近は現代文に書き直したものもあるのだという。 文章は文学作品の重要な要素であるから、分かりやすく書き直したりすれば文学的価値は失われる。 ましてや「たけくらべ」のようなストーリー自体がごく単純な作品は、“筋を追う”だけではまったく意味がない。

 さっそく図書館で借り出して読む。 集英社版の日本文学全集、「幸田露伴、樋口一葉」である。 日本文学全集を開いたのは何十年ぶりのことだ。 まずは「たけくらべ」。 このすこぶる有名な作品はすでに読んだ気になっていたが、一種のデジャビュ。 いろいろなところで解説引用を見かけていたので、読んだ気になっていたが、全体を通読したのは初めてと気が付いた。

 先輩の案内文にあったように、一葉の作品は未だ言文不一致の傾向が色濃く残る疑似古文であるが、源氏物語や徒然草のような完全な古文ではないので、読み始めるとすぐに頭が慣れてくる。 テンポの良い情景描写や風俗描写が心地よく感じられるようになる。 泉鏡花や尾崎紅葉らの流れるような文体に似通った印象を受ける。 吉原を中心にした下町と、そこに暮らす人々の生業を背景に書かれた作品なので、我々現代人のボキャブラリーにはない言い回しや単語が頻発する。 多少の解説がないと意味が通じない部分はある。 しかし、そのまま読み飛ばしてもストーリーを追うにはさして支障はない。 例えば、主人公の美登利が手持ちぶたさになって、「伯母さん、此処の家に知恵の板は売りませぬか、十六武蔵でもなんでもいい…」などという場面は、知恵の板と十六武蔵が当時はやりの子供遊びと分からなければ一瞬頭がつかえるが、読み飛ばしてもどうと言うことはない。 折々出てくる“御新造さん”とか“左り褄を取る”などの言葉の意味は我々でも容易に分かるが、今の若い人達には何を指すやらちんぷんかんぷんなのかもしれない。 以前、春日八郎の「お富さん」に出てくる「粋な黒塀、見越しの松の…」という歌詞の意味を問うたら、誰も分からなかったことがある。 少し前に流行った流行歌まで古文の時代ではある。

 「たけくらべ」は、先月芥川賞を取った川上未映子氏の「乳と卵」がその文体を真似たと聞いていたので興味があり、改めて読み比べてみた。 たしかに、長々と連用形で繋ぎ、ほとんど終止形がない文体は似ていると言えば言えなくもないが、文章の美しさや香り高さ、文学作品としての品格はまったく異なる。 もしそう言う意図が作者にあったとしたら、つまらぬ部分だけ真似をしたことになる。 それも下手くそに。

 一葉の文章はたしかに長々と切れ目なく連なっているが、古文の係り結びのような抑揚や修飾効果があって、情景描写や心理描写に心地よいテンポが感じられる。 ありありとその場の情景が浮かび上がり、情緒や雰囲気が感じられる。 それに引き替え「乳と卵」の文体はただただひたすらレトリック、冗長な文体が情景描写や心理描写に与える効果はまるでない。 文体のみならず、内容に関しても貧弱である。 吉原の風俗が書かれる「たけくらべ」と同じく、大阪の繁華街の水商売や風俗描写が出てくるが、ただただ汚らしいだけで、文学作品としての品格は感じられない。 ああいう風にどろどろと書かなければ作品に出来ないというなら、ほかのテーマを選ぶべきだろう。 文学は社会ルポルタージュではない。

 最も異なる点は、「たけくらべ」が少年少女の淡い初恋と言うごく普遍的テーマを情感豊かに書いているのに対し、「乳と卵」は豊胸手術といういささか反社会的な行為を核にして、若い女性の特殊な風俗や心理や生き方をことさらリアルに、傷口を触るような生々しいトーンで書いている点だ。 今の社会に照らしても、モチーフ自体それほど普遍性があるとは思えない。 文学だから特段の社会性がなくてもかまわないが、それに代わる美意識や感性や人間性が書かれていなければどうしようもない。 文学作品としての評価はさておき、この二つが似ても似つかぬ正反対の作品であることは確かだ。   

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