【伝蔵荘日誌】

2008年2月24日: 芥川賞作品、「乳と卵」(川上未映子著)を読む。 T.G.

 久し振りに芥川賞受賞作を読む。 物心ついた頃から家に文藝春秋があり、以来50年以上欠かさず購読してきたが、記憶に残る芥川賞受賞作品はない。 それでも96年の「蛇を踏む」(川上弘美)とか98年の「日蝕」(平野啓一郎)あたりまでは、特に感興も湧かなかったが、これが文学というものかと思いながら読めた。 そのあたりを境にして、この賞の作品はほとんど読まなくなった。 2003年に二人の若い女性作家の同時受賞として話題になった「蹴りたい背中」(綿矢りさ)、「蛇にピアス」(金原ひとみ)は、思い立ってページを開いてみたが、途中まで読み進めて放り出した。 今どきの若者のはやり言葉まではいいとして、文中時折織り交ぜるケイタイメール文体(もしそう言えるなら)や花文字には、読み進む気力を失った。 文学上のレトリックのつもりなのだろうが、作品の内容と同じく、文学表現としていかにも軽すぎる。 以来この賞の受賞作品は読んでいない。

 今回の受賞作「乳と卵(“たまご”ではなく“らん”、とルビが振ってある)」(川上未映子:写真)も28歳の“新進女性作家”の作品である。 2002年に歌手デビューし、小説を書き始めたのはわずか2年前だという。 2ページほど読み進めたところで放り出したくなった。 文学的レトリックのつもりなのだろうが、意図的に終止形が少ない、だらだらと長ったらしい文章でつなげていく。 書かれている内容に起伏がなくとりとめがないので、文章を忠実に追うのが苦痛になる。 ついつい読み飛ばしそうになるが、ストーリーを追うだけなら、1ページ20秒で十分な内容である。 純文学はストーリーではなく、感性や芸術性や美的感覚だろうと我慢して最後まで読む。 内容は三人の女性の日常と豊胸手術の顛末である。 文章にも内容にも特段の感性や主張や芸術性は感じられない。 読み終えた後の感興もなく、徒労感だけが残る。 これが今どきの純文学なのだろうか。

 選者のコメントもはっきり分かれている。 池沢夏樹氏や村上龍氏、山田詠美氏は絶賛派である。 山田氏は「饒舌に語りながら無駄口は叩いていない」と独特の文体を評価している。 村上氏は、「最初は読みにくく、無秩序で煩雑に思えるが、ぎりぎりの所で制御された見事な文体」と褒めちぎっている。
 石原慎太郎、高樹のぶ子の両氏はまったく逆である。 石原氏は「どこにでもある豊胸手術の、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。一人勝手の調子に乗ってのお喋りは不快で聞き苦しい。 この作品を評価しなかったことで将来慚愧することはあり得ない」と一刀両断である。 高樹氏はもっと手が込んでいて、「自分の絶対文学と候補作の距離を許容する苦痛に対して選考料が支払われるものだと考えている」、と直接の批評は避けながら痛烈に批判している。 文芸春秋の軽薄な文芸ジャーナリズムを皮肉っているようにも聞こえる。

 美術や音楽と同じく、文学は文章を用いて感性や美意識や人間性や苦悩を表現する芸術だろう。 音符も読めない音楽家や、基礎技能としての写実的デッサンも出来ない抽象画家に一流はいないのと同じく、凡人には真似の出来ない卓越した文章力があってはじめて芸術性のある文学作品が生まれる。 今どきの純文学作家はどのような文章修行をしているのだろう。 今回の受賞者川上氏は、「子供の頃、実家には一冊も本がなく、小説を読み始めたのは国語の教科書だった」とインタビューで答えている。 その程度の文章体験で一流の純文学が書けるものなのだろうか。 最近の芥川賞作品を読んでいて、ほとほと感心するような文章、文体に出会ったことがない。 文章が文学作品のすべてとは思わないが、文章が未熟な文学もあり得ない。 特に純文学と言われる分野では。

 こういう若者文化の軽い文章表現を良しとする風潮は、子供やチンパンジーが描き殴った“偶然芸術”をもて囃すに似ていると言ったら言い過ぎだろうか。 明治初期、田山花袋などの言文一致体の小説がはじめて世に出たときも、似たような批判があったのだろうか。 泉鏡花の「婦系図」に見られるような伝法な語り言葉の文体も、当時は軽薄だと言われたのかもしれない。

 いずれにしろ、30年後の「日本文学全集」に、これらの作品が載らないことだけは確かだろう。   

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