【伝蔵荘日誌】

2008年2月11日: 今どきの冬山遭難 T.G.

 朝のテレビで冬山遭難のニュースを報じている。 八ヶ岳の赤岳頂上直下にある山小屋「天望荘」に宿泊していた登山客40人のうち、15人が一酸化炭素中毒に罹り、長野県警のヘリで病院に運ばれ、うち3人が重体だという。 原因は一晩中焚き続けていた石油ファンヒーターだと言う。 これも遭難のうちかと唖然とする。 石油ファンヒータでぬくぬくしようなどと考える連中がなぜ厳冬期の八ヶ岳などに登るのだろう。 そういう冬山登山をして何が楽しいのだろう。 そう言うおかしな登山客に媚びて、3000mの稜線に暖房完備の宿泊施設を提供する山小屋経営者もどうかしている。 テレビの映像を見ると、赤岳真下の切り立った稜線の狭い台地にヘリが着陸し、登山客を収容してる様子が映っている。 実にくだらない、低次元の“遭難”である。 雪崩に巻き込まれたとか、氷壁で滑落したとか、もう少し冬山らしい遭難ならいざ知らず、石油ファンヒーターで遭難とはあきれ果ててものが言えない。

 冬山の醍醐味のひとつは、1日の行動が終わった後、吹雪の中で設営した狭いテントの中で、凍えた手足を擦りながらコッフェルで湧かしたお湯を仲間同士で回し飲むような非日常生活を楽しむところにある。 稜線の山小屋に着いたら、暖かい部屋と温かい食事が待っているなんて、野暮を通り越して愚劣そのものである。 馬鹿馬鹿しくて話しにもならぬ。 今どきの登山愛好家達は何が面白くてこんなつまらぬ“冬山登山”をするのだろう。 そもそも冬の赤岳の稜線に40人もの登山客が寝泊まりしているのも変な話しだ。

 高校生の頃、朝日新聞に連載された井上靖の小説「氷壁」と、登山家芳野満彦氏の著書「山靴の音」を読んで、山に憧れるようになった。
 「氷壁」はその頃有名になったナイロンザイル切断事件を背景に、美貌の人妻と若い登山家の不倫を書いた通俗小説であるが、冒頭その頃まだ未踏だった前穂高W峰東壁の冬季初登頂を狙う新鋭登山家二人が、吹雪の東壁直下のテントで一夜を過ごす場面がある。 狭いテントの中で主人公の魚津がコッフェルで雑煮を作り、親友の小坂に手渡しながら、「何の因果で毎年正月の雑煮をお前とテントの中で食うのだろう」と語りかける。 ナイーブな高校生はこのセリフでいっぺんに痺れた。 以来、自分の中で冬山のイメージはこれに決まっている。 そう言う価値観からすると、冬山で暖房の効いた山小屋に泊まり、他人が作った食事を食べてぬくぬく寝ようなんてもってのほか、登山家の風上にも置けない。
 ちなみに井上靖は一度も山に登った経験がなく、何人かの登山家の話しを聞いてこの小説を書いたのだそうだ。 小説家の想像力は大したものである。

 芳野満彦氏は数々の初登擧記録を持つ登山家である。 かって先鋭的登山家集団として鳴らしていた第2次RCCの主要メンバーでもあった。 最近我々がヒマラヤトレッキングでお世話になるアルパインツアー社は彼も創業者の一人だという。 昭和23年、彼が17歳の高校生の頃、先輩と二人で厳冬期の八ヶ岳に登り、猛吹雪の中、赤岳と中岳の鞍部で身動きが取れなくなり遭難。 先輩は死亡、自分は何とか助かるが凍傷で両足の土踏まずから先を失う。 その壮絶な遭難の顛末を著書「山靴の音」に書いている。 遭難場所は今回の“遭難場所”天望荘の目と鼻の先である。 戦後間もない頃の八ヶ岳はもちろん稜線に有人の山小屋などない。 装備も貧弱な時代、3000m近い冬の八ヶ岳は、一握りのベテラン登山家にしか許されない冒険登山の世界であった。 考えようによっては羨ましい時代だったと言える。 今どきそう言う冒険登山をしようと思ったら、金をかけてヒマラヤあたりまで出掛けるしかない。 便利と引き替えに、我々はつまらぬ世の中を手に入れた。

 かく言う当方も、北八ヶ岳の伝蔵荘で暖炉の火でぬくぬく暖まりながら熱燗を楽しんでいるのだから、偉そうなことは言えないか。     

目次に戻る