【伝蔵荘日誌】

2007年12月24日: 福田総理の政治決断 T.G.

 薬害肝炎訴訟の原告団が大阪地裁の和解勧告を蹴って一夜明けたら、福田総理が一律救済の議員立法の腹を固めたというニュースが飛び交っている。 朝令暮改も甚だしい。 彼のそれまでの言動はいったい何だったのか。 参院選後の安部元総理の突然の辞任劇と言い、連立騒動で窮地に立たされた小沢民主党党首の迷走劇と言い、昨今の政治リーダーの言行の軽さに溜息が出る。 リーダー達のこれら一連の迷走が、得体の知れない“世論”に操られたものであることは、日本の政治にとって深刻な問題である。 根無し草のような世論で右にも左にもなびく我が国の議院内閣制政治は、ここしばらく無為無力の時代が続くだろう。

 政治決断とは、熟慮の上、確固たる信念を持ち、千万人といえども我行かんの気概で行うものだ。 世論に媚びて安易につくことを政治決断とは言わない。 例を挙げれば、轟々たる国民の非難を浴びながら、辞任覚悟で安保改正に踏み切った岸信介元首相とか、インフレを抑えるため、強大な軍部の圧力を受けながら軍事予算縮小に踏み切り、暗殺された高橋是清元蔵相などの行動を“政治決断”と言う。 世論に背中を押された政治決断など、言語矛盾のお笑いぐさである。

 C型肝炎の病原体が特定されたのはつい最近のことで、推定患者数は200万人とも言われる国民病である。 今でも治療法は確立していない。 ほとんどが戦後間もない時期の予防注射の打ち回しで広がったと言われる。 一部感染源がフィブリノゲンなど非加熱血液製剤によると明らかにされたのも、そう古いことではない。 血液製剤が感染源のひとつと判明して以降の製薬会社と厚生省の不実不作為の罪は、いくら糾弾されてもされ過ぎることはない。 しかしそのことと、原因を特定出来ない患者すべてを国の責任に押しつけることとは別問題である。

 そもそも和解勧告は、救済対象を限定し、国に無限責任を課すことなく患者を救済する案である。 救済範囲の定義が各地裁の和解案で少しずつ食い違っている事にいささかの難があるが、一律救済という無限責任を国に負わすことを回避する司法の知恵である。 救済に必要な費用は、患者認定の仕方によって数千億円とも、数兆、数十兆円とも言われる。 そのぐらいの曖昧さである。 古いカルテが散逸している今、感染が血液製剤投与によるものか否かの峻別は不可能だ。 救済範囲を決めなければ、国の医療行政は無間地獄に堕ちる。 医療保険や介護保険が圧迫され、日本の医療は大幅な劣化が避けられないだろう。 一律救済に見合う予算の捻出はほぼ不可能だろうから、政治決断の内容は曖昧模糊とならざるを得ない。 これで納得する国民は、朝三暮四の故事に出てくる愚かな猿と同じだ。

 それよりも深刻なことは、日本人が政治や行政をこの程度の浅薄なものと軽んじてしまうことだ。 年金不祥事、血液製剤不祥事など、厚労省役人の志の低さ、底知れぬ無為無能ぶりに国民は愛想を尽かした。 もう彼らが何を言っても受け付けない。 前述のような理屈を言っても誰も聞く耳を持たない。 医療行政をほかに任せるならそれでもいいが、劣化腐敗した同じ役人どもが、面従腹背でやり続ける。 フィブリノゲンに懲りた官僚達は、新治療法開発や新薬の認可に意欲的でなくなるだろう。 革新、改革をサボタージュするだろう。 10年後の日本の医療行政、医療水準は目も当てられなくなっているに違いない。 それに対し、国民は打つ手がない。 年金の体たらくをいくら憤ってみても、社保庁の役人は無傷でのうのうと胡座をかいている。 他の役所も同じことだ。 彼らはシロアリのように、利権で食いつぶすための増税を画策し、止めどもなく国債を乱発し、恬として恥じない。

 それにも増して憂鬱なのは、政権や首相閣僚の首のすげ替えを、気分次第の世論でいとも簡単に出来ると国民が思い始めていることだ。 気分だから冷静な議論や選択などしない。 間違えたらいつでも変えればいいと軽く考えている。 後は野となれ山となれ。 誰も責任を感じないし、満足もしない。 政治の水準は選挙民の水準で決まると言われる。 日本の政治と社会の劣化は止めどもなくなるだろう。 その結果生じる国益の齟齬は、国民が背負う羽目になるだろう。 天に唾するとはこのことだ。     

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