【伝蔵荘日誌】

2007年12月18日: 世の中の不条理 T.G.

 今日の朝刊に薬害感染訴訟と原爆症認定報告書と沖縄戦教科書訂正申請に関する記事が並んでいる。 最近話題になるニュースの幾つかに違和感を憶える。 少なからぬ人が同じように感じていると想像するが、このご時世、誰しも唇が寒いのかそう言う声は聞こえてこない。

 薬害感染訴訟の原告団は、なぜあれほど無理な拡大要求をするのだろう。 世論の風向きを横目で見てかさにかかっているとしか思えない。 これほど行き過ぎると、つい同情心も薄れてしまう。 今どきの世論は情緒的で客観的判断に基づいていない。 半分マスコミが創ったものだ。 民事裁判は原告と被告の争いである。 裁判所は原告を救済すると言っている。 それなのに見も知らぬ、因果関係も定かでない不特定多数の他人まで救済せよと無理難題を言う。 聞き入れられないと政治決断などと矛先をそらす。 それなら初めから裁判などしなければよい。 C型肝炎患者は薬害だけによるものではない。 政治は見通しが立たぬことまで無限に救済出来るシステムではない。

 戦争被害は原爆症に限らない。 なのになぜ原爆症に限っていまだに国の保護を受けるのだろう。 東京大空襲では一夜にして10万人が亡くなった。 名古屋大空襲の夜、母親に手を引かれ、真っ赤に染まった夜空の下を逃げまどった。 道ばたに不発の焼夷弾が腹に刺さった女性の死体を見た。 生き残った人々も、多くが家財を失い、心身傷つき、苦しみ苛まれた生活を余儀なくされた。 自分の母親もその苦労がもとで若くして亡くなった。 それなのに、放射能を浴びたと言うだけで死ぬまで国の庇護を受けられるのはどうしてなのだろう。 原爆症患者はほとんどが70才以上。 母よりはるかに長生き出来たのに、まだ補償をよこせというのだろうか。

 事の真偽はさておき、沖縄戦の集団自決をあくまで軍の強制と書けと迫る人々は、いったい何が目的なのだろう。 教科書にそう書かれれば、世の中が良くなると思っているのだろうか。 沖縄に利益がもたらされると言うのだろうか。 それとも単なる正義感か。   鬱憤晴らしか。
 沖縄の人達は沖縄戦が唯一の地上戦だったことをことさらに言うが、地上戦だけが苛烈だったわけではない。 空から爆弾、焼夷弾が雨あられと降り注いだ本土の無差別爆撃は、 死傷者の数から見ても沖縄戦以上の苛烈さである。 苛烈さではなく、“軍の強制”を糾弾したい言うのなら、もう少しやり方があるだろう。 少なくとも無関係の“プロ市民活動家”の扇動は排除してかかるべきだ。

 同様の疑問を感じることがほかにもある。

 昨夜も6チャンネルのニュースで、南京大虐殺の証言を根掘り葉掘り集め、それを喧伝する運動をしている人達を取り上げていた。 虐殺の真偽はさておき、彼らはいったい何が目的でそのことに明け暮れるのだろうか。 日本政府に謝罪せよと言うのだろうか。 謝罪させたら中国との友好が叶うと思うのだろうか。 行為によって自身のいたたまれぬ贖罪意識をアウフヘーベンさせようと言うのか。 それとも日本そのものを疲弊させようと言うのだろうか。 目的が分からない。 こういう“市民運動家”に限って、集める情報は流言飛語の類ばかり。 きちんとした史実の検証をしようとない。 中国人ならいざ知らず、日本人の行為としては理解を絶する。

 光市殺人事件の弁護団は、怪しげな弁護技術を駆使して死刑回避に持ち込もうとする。 死刑制度に反対するためと言う。 日本は三権分立の法治国家である。 ならば死刑廃止は司法の場でなく、立法の場で解決すべき問題だ。 どこの国の死刑反対論者もそうしている。 彼らはさっさと弁護士をやめて政治家になればいい。 目的を達するために、自ら司法をねじ曲げるのは司法の専門家のすることではあるまい。

 世の中、不条理は尽きない。    

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